2018年6月23日土曜日

NO 245 「茶人伝31」古田織部ってこんな人



古田織部



1544年~1615年7月6日

戦国時代~江戸時代初期の武将



アニメ「へうげもの」の主人公で、

戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名だった人みたいです。



本名は古田重然で、通称・左介。

「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来しているとか。



「織部好」として茶器製作・建築・造園など一大流行を安土桃山時代にもたらした人だそうです。



利休死後、その地位を継承するかのように、天下の茶人になったとか。



『古田家譜』に、

利休の死後、秀吉が織部に

「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、

その旨を考へ茶法を改め定むべし」

とあるのだそうです。



以後、武家茶道を確立し、茶の湯名人として一家を成すのだとか。



慶長3年(1598年)、秀吉が死ぬと、家督を長男の山城守嗣子重広に譲り隠居したようですが、

関ケ原合戦で徳川方に属し、七千石加増され、

隠居料三千石を合わせて一万石となるのだとか。



慶長15年(1610年)、二代将軍徳川秀忠に点茶の式を伝授し

「天下一の茶人」と称されたみたいです。



織部は、千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、

茶碗をゆがませ、武家好みの多様な模様と異国趣味を用いた茶碗を生み出すなど、

秩序に収まらない自由闊達な発想を持っていたそうです。



この発想に危機感を抱いたのが徳川家康で、いちゃもんをつけて織部(72歳)を自害させたようです。

当時織部は、茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界・大名などに

多大な影響力を与える存在となっていて、

幕府からその影響力・存在を危険視されるようになったためみたいです。





■利休と古田織部

利休と古田織部(左介)の出会いは不明だそうですが、

天正10年(1582年)8月27日の『妙喜庵功叔宛利休書状』に

「古佐よりの御状」とあるそうで、

これ以前に、面識があったと思われるのだとか。



師弟の交流は、遠く離れていても絶えることはなかったようで、

「武蔵鐙(あぶみ)の文」は、

武蔵国を転戦中の織部へ、利休が与えた書状だそうです。



天正19年(1591年)、利休の追放が決まると、

利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、

古田織部と細川忠興の二人だけが堂々と利休の見送りをしたみたいです。

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