2018年6月19日火曜日
NO 239 「茶人伝25」蒲生氏郷ってこんな人
蒲生氏郷
戦国時代~安土桃山時代の武将。
1556年~1595年3月17日
蒲生氏郷は、利休七哲の一人だとか。
墓所は大徳寺黄梅院。
織田信長 の人質になるけど、「尋常の子供ではない」と 信長 に認められ、
信長の娘「冬姫」を妻にもらったそうです。
蒲生賢秀の三男で、初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)、
また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)だとか。
ここからはちょっと歴史の勉強を・・・
1568年の北畠具教・具房との戦いにて初陣、
1569年の伊勢大河内城攻め、
1570年の姉川の戦い、
1573年の朝倉攻めと小谷城攻め、
1574年の伊勢長島攻め、
1575年の長篠の戦いなど武勲もすさまじく、
結局は会津若松九十二万石の大大名になったみたいです。
1582年の本能寺の変では、信長の妻子を保護したようです。
その後、豊臣秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えたそうです。
1584年 小牧・長久手の戦い、
このころ、高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受けるみたいです。
1585年 紀州征伐と、富山の役
1587年 九州征伐
1590年 小田原征伐
1592年 文禄の役で、肥前名護屋へと出陣
1593年 会津に帰国したが病状が悪化
1594年 春に養生のために京都に上洛
文禄4年(1595年)2月7日 伏見の蒲生屋敷において、病死。享年40歳。
今で言うところの直腸癌、又は膵臓癌だったみたいです。(『玄朔道三配剤録』より)
1585年頃、名前を賦秀から氏郷と名乗りを改めているようです。
これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く
「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからだったみたいです。
千少庵を保護し、徳川家康と秀吉 へのとりなしに尽力した氏郷は、
茶道方面の著書『蒲生氏郷茶日記』(茶の注文書)で、
当時の宇治茶の品質等級「極上」「白袋」などを注文したりもしているようです。
■文芸について
蒲生氏郷は、若年から岐阜瑞龍寺の南化玄興に参禅し、
三条西実枝、紹巴らについて和歌を学んだようです。
茶道は、南化和尚の計らいで、宗養・里村紹巴に師事したそうで、
その後、千利休に師事したみたいです。
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