2018年6月16日土曜日

NO 228 「茶人伝17」豊臣秀吉ってこんな人



豊臣秀吉



戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人

1537年3月17日~1598年9月18日



まずは、秀吉の出自から説明しようかと思います。





■父・木下弥右衛門について

秀吉の父・木下弥右衛門は、『尾張群書系図部集』では、

織田達勝に仕えた中村吉高の子だそうで、

織田家の足軽、あるいは雑兵だったが、ある合戦において膝を切断、

あるいは足の裏を負傷したために辞職し、故郷に帰農したとあるそうです。



木下弥右衛門は、故郷(尾張国愛知郡中村郷の下層民の家)で、仲(なか)と結婚、

藤吉郎(豊臣秀吉)・とも、小一郎、旭を授かるようです。

天文12年(1543年)1月2日、秀吉が7歳の時に死去するみたいです。





■信長に仕官するまで

その後、母・仲は竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、

いつも虐待されていたようです。

天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったようです。



当初、木下藤吉郎と名乗り、

今川氏の直臣飯尾氏の配下・松下之綱に仕えるのですが、

出奔し、織田信長に仕官するようです。



1554年頃から織田信長に小者として仕える秀吉は、

清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて、

大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角をあらわしていったようです。





■功績を挙げる秀吉

信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで、

信長は秀吉に大いに嘉(よみ)したそうです。



以降、墨俣一夜城建設(斎藤龍興との戦い)や、

近江箕作城攻略戦での活躍(観音寺城の戦い)、

金ヶ崎の戦い、姉川の戦い、小谷城の戦いと

戦(いくさ)三昧の日々を送るようです。



天正元年(1573年)、長浜城の城主となるものの、

長篠の戦い、手取川の戦い(戦闘には不参加)、

信貴山城の戦いと続くみたいです。



その後、 信長に中国地方の攻略を命ぜられ播磨国に進攻、

上月城の戦い(第一次)で毛利軍を破るようです。

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