2018年6月14日木曜日
NO 209 「茶人伝6」一休宗純ってこんな人
■一休宗純の略歴
後小松天皇の子で、幼少に安国寺、のちに天龍寺、建仁寺、禅興庵と、
転々としながら修行に励むようです。
禅興庵は、当時、峻烈な禅風で知られたそうで、
華叟宗曇の弟子となり、辛苦の末、
その法を嗣(つ)ぐようです。
この時、「洞山三頓の棒」という公案に対し、
「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答えたことから、華叟より一休の道号を授かったのだとか。
悟りを得たのち、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となり、
塔頭の真珠庵を、開祖として創建するようです。
また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、
後に「一休寺」とも呼ばれるようになったのだとか。
以後、天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたみたいです。
臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっているそうです。
以下、略歴です。
1394年 京都生まれ。
1400年(6歳) 京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒、周建と名付けられる。
1405-6年(13歳) 漢詩『長門春草』著。
1407-8年(15歳) 漢詩『春衣宿花』著。
1410年(17歳) 謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改める。
1414年 謙翁宗為の死去。一休の自殺未遂。
1415年 京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子になる。
華叟より一休の道号を授かる。
1420年 ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。
1428年 称光天皇崩御。一休が後花園天皇を推挙。
1474年 後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられる。
1481年(88歳) 酬恩庵においてマラリアにより死去。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿