千道安
戦国時代~江戸時代初期の茶人。
1546年~1607年3月14日
墓所は堺市南宗寺。
千道安 の「剛・動の茶」に対して、
少庵は「柔・静の茶」と評される。
千利休の長男で、母は宝心妙樹だとか。
始め紹安と名乗り、後に道安といったようです。
号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人などがそうです。
利休と折り合いが悪く若い頃に家を出たようです。
のちに利休と和解し、茶の道を修め豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられるまでになったそうです。
以下、いろいろ説があるのですが、ウィキペディアによると、
利休切腹後、金森長近に預けられたようで、蟄居、謹慎を命じられたみたいです。
1594年、赦されて堺に戻り、千家の家督を継いだそうです。
1601年、細川三斎に招かれ、茶頭となり、豊前水崎で三百石を拝領したようです。
1607年、豊前の地にて死去したとか。
となっているみたいです。
「道安囲」は道安の作意とされ、
袖壁で隔てられた次の間で点前をするという謙虚な気持ちを表しているとか。
後に、徳川将軍の茶道師範となり、
門下として桑山宗仙(くわやま さだはる)・金森可重(かなもり ありしげ)らを輩出しているとのこと。
桑山宗仙:片桐石州の師匠。
金森可重:金森長近の長男が戦死したため、その養子に迎えられた。
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