2018年6月13日水曜日

NO 183 紹鷗百首ってこんなの



武野紹鴎は、1502年、大和国吉野郡に生まれたそうです。

父は信久、母は大和の豪族中坊の娘だとか。



はじめの名は仲材、通称・新五郎といったようで、武田伊豆守信光の後裔なのだとか。



父信久は紹鴎が11歳のとき、応仁の乱に際会して親族を失い、大和国の豪族中坊の庇護を受けるようです。

その後信久は、同族の三好氏の勢力下にあった泉州堺に移り、武具製造に必要な皮革を商って財をなし、併せて都市国家堺の町人として軍事面で指導的な役割を担ったようです。



紹鴎が24歳になったとき、京都四条室町上(現在金剛流宗家)に屋敷を構えさせ、財力を背景として紹鴎の栄達をはかったみたいで、29歳のとき従五位下因幡守の官位を得たそうです。

『実隆公記』には本願寺について出陣したとの記述もあるとか。



当初、和泉国に住んでいたのですが、27歳の時、若いころから志していた連歌を、当時随一の文化人であった三条西嶺隆に学び、14年間、在京するそうです。



またこの時、紹鴎は、茶の湯を藤田宗理・十四屋宗伍に学んで、頭角をあらわし、珠光の為し得なかった「わび茶」を目指して、大きくその一歩を踏み出すのだとか。



32歳で剃髪、脱俗を志向、孫の宗朝の自筆稿本『尾張雑集』に、

「大徳寺の古岳宗亘に参禅した」とあるそうです。



紹鴎は「紹鴎茄子」など六十種もの名物を所蔵する富豪である一方で、無一物の境涯を理想とし、紹鴎の「わび」は富裕と簡素の両極の間を楽しむことにあったようです。



36歳で父と師実隆を失うと、古岳和尚の法嗣大林宗套を法援し、堺に南宗寺が建立されるそうです。

大林宗套に一閑居士の号を授けてもらったようです。

(※古獄和尚は、大徳寺七十六世で、堺の南宗寺の前身となる南宗庵を開き、堺衆に膳を説いた人だそうです。)



その後、和泉国の泉南に帰り、そこに住むみたいです。

住まいが夷嶋(えびすしま)に対するので、大黒庵と名付けたのだとか。



珠光の茶法に追加して一巻を著し、茶道の中興となったようです。



武野紹鴎は、1555年10月、54歳で亡くなるようです。

遺偈に、

 「曾て弥陀無碍の因を結びて 宗門更に活機輪を転ず

 量りを知る茶味と禅味と 松風を吸尽す心塵れず」

とあるそうです。



墓は堺の臨江寺にあるのだとか。





■武野紹鴎の茶

武野紹鴎は、村田珠光の門下の藤田宗理・十四屋宗陳や十四屋宗悟などに茶の湯を学び、三条西嶺隆の『詠歌大概(藤原定家)』の序の講義を聴いて、歌のわびの心が茶の湯と共通することを悟ったみたいです。

(※つまり、武野紹鴎は、村田珠光のひ孫弟子になるでしょうか。)



三夕の和歌の一つ

「見渡せば花も紅葉も無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」

の心を見てとれるそうです。



和歌の意味は、

 花や紅葉を書院台子になぞらえて、

 つくづくそれを眺めきてみれば、

 無一物の裏の苫屋にたどりつく。

となるようです。



紹鴎は、わび茶の心を藤原定家の歌に託して、常々愛唱していたそうです。

そして、紹鴎は、茶の湯の中に「無一物」という禅の境地を見出し、村田珠光の為し得なかった「わび茶」を目指し、座の芸術である「茶の湯」を完成させるようです。



唐物中心だった茶道具に、瀬戸・信楽など日本の物を取り入れ、

竹の蓋置・木地の曲物・土風炉を考案したとのこと。



この「わび茶」という言葉は、紹鴎が初めて使った人で、「わび」を「枯カジケテ寒カレ」と表現したそうです。



『南方録』によると、京都四条に大黒庵という四畳半の茶室を営むのですが、珠光のものとは、趣きを少し異にするものだったようです。



壁を土壁に、木格子を竹格子に替えるとともに、障子の腰板を取り払い、床框(とこがまち)を薄塗り、または白木にして、「草(そう)の座敷」と呼んだそうです。



この座敷には、台子を飾らず、袋棚を飾ったようで、床には墨蹟と花入以外を飾らなかったみたいです。



床の幅も、珠光の名物茶道具を飾る一間床(いっけんどこ)に対し、

紹鴎は、五尺床だったとか。





■紹鴎の茶道具

『山上宗二記』に

「堺武野紹鴎、名人也。名物ノ道具六十種所持ス。」

「当代千万ノ道具ハ、皆紹鴎ノ目明ヲ以テ被召出也。」

とあるそうです。

大名物の唐物茶入「紹鴎茄子(みをつくし茄手)」など、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと伝わるような、多くの名物を持っていたようです。



一方で、釣瓶水指や青竹の蓋置なども考案していたそうです。

これらは、「わび茶」の道具と言って良いと思われます。



『長闇堂記』に、

「つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、

紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、

数寄をせられし時、初てこの作意有となん」

とあるそうです。





■武野紹鴎と千利休

千利休の師匠である武野紹鴎、

立花実山著『南方録』にその師弟関係を見ることができるようです。



 紹鴎が弟子の利休・不干斎らを伴い、宗能の茶事に招かれた道すがら、道具屋に「耳付きの花入」を見かけます。

 欲しいけど連れもあってその時は通り過ぎ、翌朝、使いの者に買いに行かせます。

 ところが、先に利休に購入され、 利休から「花入を見つけたので茶会に来てね。」と言われ、

 金槌を持って紹鴎は出かけます。



 席入りし、白椿が二輪入っている片方の耳付けを欠いた花入を見て紹鴎は、利休に先を越されたことの他に

 「耳付けを片方欠けばさらに良い花入になると思い、

 金槌を懐中してきたが無用だったか。」

 と言ったそうです。

利休と紹鴎の心が見事に通じ合っている様子を、相伴の人々も感じたようです。



ちなみに、不干斎(佐久間正勝)は、信長と父親から追放される程の茶の湯好きだったそうです。

宗能は銭谷宗訥(ぜにやそうとつ)の事で、武野紹鴎の弟子。

弟子は他に、 今井宗久 ・ 津田宗及 ・松永弾正・細川幽斎・辻玄哉・三好笑岩等がいるようです。 



『喫茶指拳録』には、まだ利休が与四郎と呼ばれていたころの話があるそうです。

 他の家の火事から与四郎の家が類焼、

 結局、家は全焼してしまいますが、

 火事見舞いに行った紹鴎が見たものは、

 焼け跡の灰からやぶれた瓦などを拾い

 「踏み石」にしていた光景だったとのこと。



紹鴎は、いたく感動し、将来は随一の茶人になるだろうと賞美したそうです。





■紹鴎のわび茶:『山上宗二記』より

『山上宗二記』では、「紹鴎は混じり気のない純粋な茶のありさまの時期になくなった。たとえれば吉野の桜の花盛りも夏も過ぎて、秋の名月、また紅葉の美しさにも似たものだ。」

と結んでいるそうです。



「わび茶」は冬枯れに例えられるそうです。

この『山上宗二記』では、紹鴎の茶の湯に対し、

季節は秋まで来たけれど、冬には、まだなっていない、

ということを表現したものだと思われます。

つまり「わび茶」まであと一歩のところまで来た、

と解釈できるでしょうか。



その後、紹鴎の茶湯は、千利休、 津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって「わび茶」が継承されるそうです。



特に利休が「術は紹鴎、道は珠光より」と説いたことで、

紹鴎の名声は、人々に広く知れ渡っていったようです。



紹鴎が目指した茶の湯の境地を『山上宗二記』では、

「枯れかじけ寒かれ」

としているそうです。

これは連歌師である心敬の言葉から引いたもののようです。





■紹鴎のわび茶:『わびの文』より

『紹鴎わびの文』には、

「侘びと云ふこと葉は、

故人もいろいろに歌にも詠じけれども、

ちかくは正直に慎み深く、

おごらぬさまを侘びと云ふ。」

とあるそうです。



この『紹鴎わびの文』は、紹鴎が、

少壮の34歳以前の利休に与えた、

わびの真髄についての説いたものだそうです。



利休が詠んだ和歌

 茶の湯とは ただ湯を沸し 茶を点てて

 飲むばかりなる 本(もと)を知るべし

の意味する本(もと)が、この「わび」で、

正直に慎み深くおごらぬ心、

落着いた精神状態を常に保つことを意味するみたいです。



また『紹鴎わびの文』に

「いつはりなき世なりけり神無月

誰がまことより時雨そめけん

と、よみけるも定家卿なればなり。

誰が誠よりとは心言葉も不及処を

さすがに定家卿に御入候。

ものごとの上にもれぬ所なり」

とあるそうです。



つまり、1年のうちの10月が「わび」に当たるとしているようです。

この10月は、旧暦の10月のことで初冬になるそうです。

「時雨そめけむ」とあるように時雨がはじまる季節なのだとか。

紅葉の秋も過ぎ、やがてすべてが枯れる冷たい冬に入ろうとする時期、

紹鴎はその季節を「侘びなれ」と表現しているみたいです。



『紹鴎わびの文』の終わりの方に、

「天下の侘の根元は天照御神にて、日国の大主にて、

金銀珠玉をち りばめ殿作り候へばとて、

誰あってしかるもの無之候に、

かやぶき黒米の御供、其外何から何までつゝしみ

ふかくおひたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候。」

とあるようです。



これは、天照御神を祀る伊勢神宮の、質素な祭祀の形態とその精神をもって「わび」を説明しているのだとか。

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