2018年6月13日水曜日

NO 200 茶歌舞伎の道具ってこんなの



七事式の一つ茶歌舞伎について説明します。



茶歌舞伎は南北朝のころに「闘茶」と呼び、京都を舞台に文化人の遊びとして流行したそうです。

当時、栄西禅師から明恵上人に受け継がれた京都栂尾一帯の茶を「本茶」としていたため、

「本茶」か他産地の「非茶」かを飲み分けることが始まりだったとのこと。

やがて、「かぶく(遊ぶ)」という風俗が歌舞伎芝居の名を生み、

「茶歌舞伎」さらに「茶香服」になり娯楽遊戯として素人の間に流行したみたいです。



闘茶の前身は「水の産地を当てるもの」「茶碗の蓋をとって茶柱の有無を賭ける単純なもの」

「酒宴の席や蒸し風呂で木にぶる下げた賞品の奪い合い」などの闘水・茶博奕・林間茶湯だったそうです。

時代とともに闘茶で使用する茶葉が、三種のものから種類が増えたものや遊技法を凝らした「闘茶」へと変遷していったみたいです。



その遊戯性により茶会(闘茶)の式次が定まっていき興なわれたのが南北朝時代で、

公家・僧侶階級中心の闘茶之会は丸1日を要する雅な茶会だったようです。

室町時代には、式(会)の簡略と煎茶・道具の普及もあり、闘茶之会は一般武士・商人にも広がり流行したそうです。



賭博の広まりとともに人心の乱れから、ついに足利幕府は建武3年(1336)、禁令を交付するまでに至り、

戦国時代に何度も公布された種々の賭博禁止令と共に公の闘茶之会・茶の遊芸は衰退していったようです。

そんな中、茶道・煎茶道が「道の精神文化」として生まれ、

江戸期に茶道の千家七事式の一つとして形式と文化を大きく変化して残ったみたいです。



煎茶が大流行した幕末から明治初期にかけ、闘茶道具一式が多く作られるようになり、

上代時期の闘茶式を模写し、茶を煎茶として、一時復活をしたそうです。

これが今日にも伝承される闘茶式になるのだとか。



七事式の茶歌舞伎は、闘茶をもとに、味覚の修練のために作られたもので、

通常は、二種の試み茶を喫し、その味を覚えておき、次に本茶三種(前の試み茶二種にもう一種加えたところ)を喫して、

その味の別をききわける式だそうです。

連客に定数はないが、通常、点茶役1名、執筆者1名、普通の客4名の計6名で行われるのだとか。



また、宇治市で行われている茶歌舞伎(茶香服)は、

ふつう玉露二種、煎茶三種を用い、それぞれの茶に花・鳥・風・月・客の名前をつけて熱湯をさし、

90秒たったもので飲み分けるのだそうです。

一回飲むごとに、自分の思った茶銘の種別札を札箱に入れ、そして一通り(5回)すめば札箱をあけて採点するのだとか。

これを5回繰り返してその合計点で順位を決めるようです。



これは、服装ややかましい礼儀作法にはまったく関係なく、誰でもが参加できる風流な品質飲み当てゲームみたいです。

採点方法は、煎じ札を出して競技者に出した茶の順番を教えて採点するそうです。

全部正解の場合は「皆点」5点とし、あと3点、2点、1点、0点となるようですが、

全部誤りの場合は0点と言わずに「チョット」と表現するのだとか。



さて、茶道の「茶歌舞伎」に必要な道具は、

茶かぶき棗、棗盆、緋大袱紗、看板板、折居、名乘札、小奉書(一帖)、硯箱などだそうです。



小西酒造に伝わる茶道資料『七事 凌雲帳 風の巻』に、

「茶かぶきは試茶(しちや)の式にて、濃茶に限り薄茶には用ひず。

茶かぶきは爐に適當にて、風爐では行ひ得ざるに非ざるも、不適當なり。」

とあるようです。



棗:宗哲製で真塗同大(どうだい)のものを五個使いますが、昔は十個を用いたみたいです。

棗盆:如心斎好は、宗哲製で長方形の真塗盆だそうです。

看板板:黒塗りの縦×横×厚さ=二尺五寸×四寸五分×四分の板で、上縁より七分下げて釘穴があるようです。

名乘札:縦×横=約三寸五分×約一寸八分の美濃紙を三等分したものだそうです。

折居:大の分一二三の三つを用いるそうです。折居一を上に順に三つを重ね、上に名乘札を載せるのだとか。

小奉書:「執筆」が記録するもので、表を上にして「ふわり」と二つに折りにし、

折り目を左にしてその上へ硯箱を載せて持出し、執筆の座の前へ置くのだそうです。

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