2018年6月14日木曜日

NO 208 「茶人伝5」能阿弥ってこんな人



能阿弥(本名:中尾真能、号:春鴎斎)は、

水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師で、

足利義教(六代将軍)から同朋衆(どうぼうしゅう)として仕えたとか。

能阿弥の父親も、毎阿弥と称して将軍に仕えていたようです。





■同朋衆(どうぼうしゅう)について

同朋衆というのは、

室町時代以降、将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のことだそうで、

1866年まで続いたとか。



元々は、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に同行した時衆(従軍僧)で、

目的は武将の最後にあたってその菩提を弔うためと、

負傷したものを治療することだったようです。



次第に、平時において、芸能を活かして武士の慰めとするようになっていき、

同時に側近、取次ぎ人としての役目も果たすようになり、

室町初期には、幕府の職制に組み込まれていくようです。



制度としては、細川頼之が執事となって六人の法師を抱えて、

足利義満に仕えさせたことに始まるのだとか。



鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教:時宗

時衆(じしゅ)における遊行は、室町幕府から関所自由通過を許され、

時衆に加わる手続きも簡単だったため、

芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになったそうです。





■能阿弥の成果

元は越前朝倉氏の家臣だった中尾真能(さねよし)は、

足利義教・義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号したそうです。



能阿弥の仕事は唐物の鑑定や管理、東山御物の制定を行い、

特に水墨画に優れ、阿弥派の開祖とされ、鶴図を描き義政に絶賛されたといわれるとか。



「花鳥図屏風」「白衣観音図」など、

牧谿(日本の水墨画史上、最も高く評価されてきた画家の一人)の図様を、

そのまま取り込んだ作品が残っているそうです。



茶道では「書院飾りの完成」「台子飾りの方式の制定」など、

小笠原流の礼法を参酌して今日に伝えられているような茶の点て方を考案したとか。

『山上宗二記(やまのうえのそうじき)』では「同朋中の名人」と記されているみたいです。

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