2018年6月13日水曜日

NO 186 利休と紹鷗の関係性ってこんなの



ここでは、一休宗純について説明します。



村田珠光 が参禅した大徳寺の一休は、優れた禅風と、

ある意味物好きとも取れる強い求道心(ぐどうしん)を持っていたようです。



自由奔放で、奇行が多かった一休。

一見奇抜な言動は中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者と通じるものがあり、

教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされるそうです。



同時に、こうした行動を通して仏教の権威や形骸化を、

批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったのだとか。





■一休宗純の略歴

後小松天皇の子で、幼少に安国寺、のちに天龍寺、建仁寺、禅興庵と、

転々としながら修行に励むようです。



禅興庵は、当時、峻烈な禅風で知られたそうで、

華叟宗曇の弟子となり、辛苦の末、

その法を嗣(つ)ぐようです。



この時、「洞山三頓の棒」という公案に対し、

「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

と答えたことから、華叟より一休の道号を授かったのだとか。



悟りを得たのち、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となり、

塔頭の真珠庵を、開祖として創建するようです。



また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、

後に「一休寺」とも呼ばれるようになったのだとか。



以後、天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたみたいです。



臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっているそうです。



以下、略歴です。

1394年 京都生まれ。

1400年(6歳) 京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒、周建と名付けられる。

1405-6年(13歳) 漢詩『長門春草』著。

1407-8年(15歳) 漢詩『春衣宿花』著。

1410年(17歳) 謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改める。

1414年 謙翁宗為の死去。一休の自殺未遂。

1415年 京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子になる。

 華叟より一休の道号を授かる。

1420年 ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。

1428年 称光天皇崩御。一休が後花園天皇を推挙。

1474年 後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられる。

1481年(88歳) 酬恩庵においてマラリアにより死去。

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