2018年6月21日木曜日

NO 240 「茶人伝26」細川三斎ってこんな人



細川三斎



1563年11月28日~1646年1月18日



戦国時代から江戸時代初期にかけての武将

細川三斎は、利休七哲の一人だとか。





正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、

遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、

以後細川家の菩提寺として庇護される。



大徳寺高桐院

玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)

細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、

玉甫紹琮を開山とする。玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎のおじにあたる。



室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれたみたいです。

以後、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、

現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた人だそうです。



足利氏の支流・細川氏の出身で、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)だとか。

室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、

その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復したようです。



また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎)としても有名で、利休七哲の一人に数えらるみたいです。

茶道の流派三斎流の開祖で、その著書は少なく、本人が書いたのは『数寄聞書』位しかないとか。

(一応、川口恭子の論文「細川三斎の茶書について」に詳しく載っていたりする。)

北野大茶会の折には松向庵という名の茶席を設け、後年「松向殿」呼ばれたりしたそうです。



松屋久重著『茶道四祖伝書』には「天下一気の短い人物」と書かれているとか。

ちなみにこの四祖というのは、利休・織部 ・三斎・遠州の四大茶人のことみたいです。



晩年の1637年に奈良で開かれた茶会では、

徳川秀忠から拝領した「金渡墨蹟(きんわたしのぼくせき)」、利休が譲った「開山阿弥陀堂釜」、

茶碗は信長が普段使っていたもの、

金森可重が小壷狩り入手した「山井肩衝(やまのいかたつき)」、利休作の茶杓「命トモ」、

利休と一緒に町で見つけた建水、利休が持っていた「根太香合」など

利休が持っていた多くの茶道具を使ったそうです。



古田織部が利休旧蔵の道具を使うことがなかったそうなので、

かなり対照的だったみたいです。

「茶の湯の上手な昔の人たちが死んでしまったので、古田織部が名人になった」とも言ったとか。

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