2018年6月23日土曜日
NO 244 「茶人伝30」瀬田掃部ってこんな人
瀬田掃部
1548年頃~1595年8月10日
瀬田掃部は、利休七哲の一人だとか。
瀬田正忠(せた まさただ)は、戦国時代の武将で、通称・清右衛門だそうです。
後に、名を伊繁(これしげ)としたようで、掃部というのは官位に由来するのだとか。
高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、
1584年、小牧・長久手の戦いに従軍しているようです。
豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下掃部頭に叙任されたそうです。
1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐等に従軍したみたいです。
小田原征伐では、徳川家康らが落城させた相模国玉縄城に、
古田重然と共に入り守備についたそうです。
1588年、後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に、
芝山宗綱と共に先導役を務めたみたいです。
豊臣秀次と親しく、1595年、秀次の粛清に連座して処刑されたようです。(秀次事件)
豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子みたいです。
■利休と瀬田掃部
利休と瀬田掃部の出会いは不明だそうですが、
1584年12月に、津田宗及の茶会に古田左介(織部)と招かれているそうで、
これ以前より茶の湯に親しんでいたようです。
また『茶道四祖伝書』織部伝書によれば、
1585年に、利休の勧めに従い、古田織部とともに奈良の松屋久政を訪ね、
松屋名物の1つ「鷺の絵」を拝見しているようで、
利休との師弟関係は、それ以前からあったみたいです。
また、瀬田掃部は、茶杓削りの名手だったそうで、
比較的多くの茶杓が、現在まで伝えられているようです。
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