2018年6月15日金曜日

NO 224 「茶人伝13」武野紹鷗ってこんな人 コピー



武野紹鴎



1502年~1555年

戦国時代の堺の豪商・茶人。





武野紹鴎は、1502年、大和国吉野郡に生まれたそうです。

父は信久、母は大和の豪族中坊の娘だとか。



はじめの名は仲材、通称・新五郎といったようで、武田伊豆守信光の後裔なのだとか。



父信久は紹鴎が11歳のとき、応仁の乱に際会して親族を失い、

大和国の豪族中坊の庇護を受けるようです。

その後信久は、同族の三好氏の勢力下にあった泉州堺に移り、

武具製造に必要な皮革を商って財をなし、

併せて都市国家堺の町人として軍事面で指導的な役割を担ったようです。



紹鴎が24歳になったとき、京都四条室町上(現在金剛流宗家)に屋敷を構えさせ、

財力を背景として紹鴎の栄達をはかったみたいで、

29歳のとき従五位下因幡守の官位を得たそうです。

『実隆公記』には本願寺について出陣したとの記述もあるとか。



当初、和泉国に住んでいたのですが、27歳の時、若いころから志していた連歌を

当時随一の文化人であった三条西嶺隆に学び、14年間、在京するそうです。



またこの時、紹鴎は、茶の湯を藤田宗理・十四屋宗伍に学んで、頭角をあらわし、

珠光の為し得なかった「わび茶」を目指して、大きくその一歩を踏み出すのだとか。



32歳で剃髪、脱俗を志向、孫の宗朝の自筆稿本『尾張雑集』に、

「大徳寺の古岳宗亘に参禅した」とあるそうです。



紹鴎は「紹鴎茄子」など六十種もの名物を所蔵する富豪である一方で、

無一物の境涯を理想とし、紹鴎の「わび」は富裕と簡素の両極の間を楽しむことにあったようです。



36歳で父と師実隆を失うと、古岳和尚の法嗣大林宗套を法援し、堺に南宗寺が建立されるそうです。

大林宗套に一閑居士の号を授けてもらったようです。

(※古獄和尚は、大徳寺七十六世で、堺の南宗寺の前身となる南宗庵を開き、

堺衆に膳を説いた人だそうです。)



その後、和泉国の泉南に帰り、そこに住むみたいです。

住まいが夷嶋(えびすしま)に対するので、大黒庵と名付けたのだとか。



珠光の茶法に追加して一巻を著し、

茶道の中興となったようです。



武野紹鴎は、1555年10月、54歳で亡くなるようです。

遺偈に、

 「曾て弥陀無碍の因を結びて 宗門更に活機輪を転ず

 量りを知る茶味と禅味と 松風を吸尽す心塵れず」

とあるそうです。

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