2018年6月14日木曜日

NO 211 「茶人伝8」村田珠光ってこんな人



村田珠光

1423年~1502年



室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者。



僧侶なのに苗字がある珠光は、足利義政に召し出され茶を指南したとされているとか。



30歳の頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅

1468年に還俗してから村田珠光と名乗り始めたとともいわれているそうです。

ただ『山科家礼記』によると、珠光は一生涯僧侶であったという説もあるみたいです。



珠光は、杢市検校という琵琶法師の子で、奈良の称名寺から京都に移住した後、30代で茶の湯に邁進するようです。



当時、将軍家や有力大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物道具、

それらを飾り付ける室礼の方法などが流行していたようです。



その中にあって、義政の同朋衆・能阿弥により整備された「会所の茶」から、

能や連歌の影響を受け、一休宗純との関わりから禅を学び、

能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し、「わび茶」の精神を作ったようです。



茶道は禅と同一であるべきとする「茶禅一味」も、珠光が境地を開いたそうで、

「わび茶」の「開山」とも称されるとか。

ちなみに「茶禅一味」とは、

 『紹鴎画への大林宗套の賛』に「料知す。茶味と禅味同じなること。松風を吸い尽くして、こころいまだ汚れず」

 『山上宗二記』に「すべて茶湯風体は禅也」

 『南方録』に「小座敷の茶の湯は第一仏法を以って修行得道する事也」

 『禅茶録』に「茶意は即ち禅意也。故に禅意をおきて外に茶意なく、禅味を知らざれば茶味も知られず」

などのこと。まさに画竜点晴の眼を入れた人と言えるのではないでしょうか?



他にも、茶の湯に一大改革をもたらしたそうで、

 書院台子の茶→草庵小座敷の茶(わび茶)

 唐物(舶載名物茶器)→国焼(国産の侘び道具)

とかがあるみたいです。



四畳半の草庵の茶を提唱し、竹の茶杓を考案、茶の湯から賭博と酒盛りを追放し、

亭主と客との精神的なつながりを中心に「一座建立」を図るのが茶事の主眼とするなど、

現在に脈々と受け継がれる茶道の基礎を築いた人と言えそうです。

0 件のコメント:

コメントを投稿