2018年6月22日金曜日

NO 241 「茶人伝27」牧村兵部ってこんな人



牧村兵部



1545年~1593年8月6日





牧村兵部は、利休七哲の一人だとか。



牧村利貞(兵部)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、

別名は、政治・政吉・高虎だそうです。長兵衛や兵部大輔は、通称だとか。

父は稲葉重道で、のち牧村政倫の後嗣となるようです。



初め織田信長に仕え、天正12年(1584年)に、豊臣秀吉の馬廻衆となるみたいです。



また、高山右近の勧めで、キリシタンとなったそうです。



兵部は1590年に、二万石を与えられて伊勢の岩手城に入るそうですが、

文禄・慶長の役に出陣、12名いた舟奉行の一人として名護屋に従軍、

渡海して、かの地で病没しているようです。

遺体は京都に送られ、生前、弟一宙を開山として建立していた妙心寺雑華院に葬られたそうです。





■利休との関係

利休と兵部の出会った時期などは不明だそうですが、

1578年6月に、津田宗及の亭主の会に出席しているそうで、

それ以前に、茶の湯に親しんでいたと思われるみたいです。



利休とは懇意だったようで、利休が自宅に松を植える手伝いを依頼したものや、

兵部が葉茶壺の目利きを頼んだ手紙も残っているそうです。



利休の手紙には兵部が茶会を催すことが書かれていたそうで、

他にも茶会に出ていたみたいです。



『細川三斎御伝授書』によれば、

茶室の突上窓は、兵部が書院の屋根に切ったのを見た利休が

「小座敷」に切ったそうです。

兵部の創意に優れた一面といえるようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿