2018年6月22日金曜日

NO 242 「茶人伝28」高山右近ってこんな人





戦国時代~江戸時代初期の武将。

キリシタン大名。ジュスト(ユストとも)



1552年~1615年2月4日





高山右近は、利休七哲の一人だとか。



高山右近の通称は、彦五郎だそうです。



有名な「右近」の呼び名は私的な名で、

正式な官位としては大蔵少輔までなっているみたいです。

諱は友祥、長房、重友など複数伝わるようですが、

文書等で確認できるのは「重友」のみなのだとか。



主君は、松永久秀→和田惟政→荒木村重→織田信長→

豊臣秀吉→前田利家→利長

らに仕え、数々の戦功を立てたそうです。





■キリシタン大名

父・高山友照が、熱心なキリスト教徒であった影響で、11歳のときに受洗、

ドン=ジュスト、ジュスト=ウコン殿と、宣教師たちから畏敬の念をもって呼ばれていたとか。



1573年頃からキリシタン大名として有名になり、

牧村兵部 ・ 蒲生氏郷 ・黒田如水・ 織田有楽 ・小西行長などを、

茶を介してキリシタンとしたみたいです。



摂津高槻城内には、天主堂やセミナリオ(神学校)などが造られ、

1581年には、領民二万五千人の内、一万八千人がキリシタンになったようです。



「バテレン追放令」を受け、棄教をすすめる秀吉の使者に

千利休がたったとのこと。



再々の勧めにも応じず信仰を守った右近は、明石六万石の城主の立場を捨てて諸国を流浪、

加賀の前田家に客将として招かれるそうです。

藩主・前田利家のとりなしで、小田原攻めや朝鮮出兵に参加するようです。



徳川家康の「キリスト教禁止令」により国外追放され、

最後はマニラで63歳の生涯を終えたそうです。



その後、右近の家族は日本への帰国を許され、

現在は「石川県羽咋郡志賀町代田」「福井県福井市」

「大分県大分市」に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。

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