2018年6月25日月曜日
NO 251 干菓子の持ち帰り方ってこんなの
お茶菓子は、1・3・5と奇数個でお出ししますが、これは陰陽思想の奇数は陽数
というところから来ているみたいです。
中国で陽数は、神聖なるもの・無限なるもの・偉大なるものを意味し、
上は皇帝から下は庶民まで、縁起のよいものとして愛用されているとのこと。
中国ではとくに始めと終わりの「三」と「九」にこだわる傾向が強いそうです。
陽数の極になる9が重なる日は「重陽」と言うのもここから来ているようです。
NO 250 干菓子の食べ方ってこんなの
干菓子器は、茶事の中では、薄茶で気軽な押物・打物・有平糖など、
取り回しのできる菓子を盛ります。
材質は、塗り・木地・竹・砂張・南鐐などがあり、形もさまざま。
器と菓子の調和を考えつつ、干菓子を客数分より多めに盛って勧めるのは、
亭主の特権でしょうか。
■菓子絵図帳について
さて、ここでは、お菓子に関する文献を少々。
1695年『御菓子之書図』:吉田コレクション
1824年『新製御菓子絵図』:虎屋黒川家文書
1836年『浪華家都東』:吉田コレクション
1858年『菓子絵図帳・塩瀬山城』:吉田コレクション
幕末期『あじの花』:虎屋蔵
1913年『勅願干支新年菓帖合本 坤』:藤澤文二郎著、京菓子資料館
現代『菓子図・春雨』:平塚運一著、京菓子資料館
?年『御蒸菓子図』:澤屋播磨伝来、東京国立博物館蔵
?年『菓子譜』:虎屋蔵
?年『茶道宗家好菓集』:京菓子資料館蔵
現存する菓子絵図帳で、もっとも古いものは、
『御菓子之書図』だそうです。
どの菓子絵図帳も、色鮮やかな絵図で、
当時の藩主や茶人の好みの菓子を記したもののようです。
他にも、1693年刊の男性向け実用書『男重宝記』などに、
取り上げられたりしているとか。
17世紀、それまで茶道具に対して見立てを楽しんでいた茶人の趣向が、
上菓子の銘や意匠の工夫につながり、
大名や裕福な商人などの嗜みになっていったようです。
大奥の様子や武家の生活を描いた錦絵にも、
菓子折や高杯に盛られた、縞模様の有平糖や色とりどりの落雁などが
描かれているそうで、贈答用の菓子選びに、
絵図帳が使われていたのではないかと推察されるのだとか。
NO 249 干菓子器から干菓子をいただくってこんなの
縁が浅くて平たい器をいうそうです。
青貝盆(あおがいぼん)、堆黄(ついおう)、堆朱(ついしゅ)、堆黒(ついこく)、存星(ぞんせい)、
独楽盆、矢筈盆、鎌倉彫、漆絵、蒔絵、根来(ねごろ)、一閑、張貫盆(はりぬきぼん)などがあるみたいです。
金属器では、砂張(さはり)、モール、南鐐(なんりょう)、唐銅(からかね)などがあるのだとか。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
・元伯好:惣菓子盆。一閑四方 へぎ目があるもの
・宗全好:へぎ目のないもの
・如心斎好:砂張盆 南蛮、朝鮮。三脚盆 利休形、朱畳付黒。八角盆 朱塗黒つばめ
・宗全好:菊絵硯蓋 桐木地錫縁、菊の絵、花胡蝶、葉紺青
・了々斎好:八角菊絵 桐木地、金粉にて菊の絵、錫縁
といったことが記載されているそうです。
NO 248 主菓子の食べ方ってこんなの
縁高は、縁高折敷の略で、縁高重というようです。
菓子椀に代わる正式な主菓子器。
折敷の縁を高くした形のものを、
通常五つ重ねて一組とし、
最も上に一枚の蓋(総蓋)が添うそうです。
真塗のほか、一閑・溜塗・飛騨・春慶・透かしを入れたもの・切箔・蒔絵などがあるみたいです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「縁高 黒塗り、利休形、一閑張は元伯このみ」
とあるそうです。
NO 247 縁高から主菓子をいただくってこんなの
江戸中期の百科事典『類聚名物考』に、
「縁高折敷 ふちだかのおしき 今俗には縁高とのみいふ。
古は折敷に縁高と、さもなきつねの物有りし故、わかちていひしなり」
とあるそうです。
伊勢貞丈著『貞丈雑記』には、
「ふち高は、ふち高の折敷と云物也。
折敷のふちを高くすえたる物也。
菓子などをもる為に、ふちを高くする也。
大きさ五寸四方計。
ふち高さ一寸五分ばかり、角切角也。
廻りに桂を入る也。」
とあるようです。
喜多村節信著『嬉遊笑覧』には、
「按るに今縁高といふものは、
足付の折敷(木具とも八寸ともいふなり)の縁の高きものなり。
折敷に足付たるは縁高といふへからず。
縁高きは物を盛るによければ、櫃のごとく用ひ、蓋をも作りたる也。
膳に用ひざれば異ものヽ如くなれり。」
とあるみたいです。
七宝とはもともと仏典での用語で、大変貴重だった七種の宝のことだそうです。
七種の宝は『無量寿経』だと「金・銀・瑠璃・玻璃(はり)・珊瑚・めのう・しゃこ」のこと、
『法華経』だと「玻璃・珊瑚」の代わりに「真珠・マイ瑰」のことを指すそうです。
七宝文様は、同じ大きさの円の円周を四分の一ずつ重ねて繋いでいく文様で、
有職文では「輪違い」と呼ばれるみたいです。
正確には、この七宝文様と仏教用語の「七宝」との関係については不明だそうで、
古くは「四方襷(しほうたすき)」という呼び名があって、
その「四方(しほう)」が「七宝(しっぽう)」へと変化したという説があるようです。
現在では、七宝の円形は円満を表し、
吉祥文様としてのイメージが定着し、
宝尽くしの一つに数えられるようになった縁起のよい文様なんだそうです。
2018年6月23日土曜日
NO 245 「茶人伝31」古田織部ってこんな人
古田織部
1544年~1615年7月6日
戦国時代~江戸時代初期の武将
アニメ「へうげもの」の主人公で、
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名だった人みたいです。
本名は古田重然で、通称・左介。
「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正(織部助)の官位に叙任されたことに由来しているとか。
「織部好」として茶器製作・建築・造園など一大流行を安土桃山時代にもたらした人だそうです。
利休死後、その地位を継承するかのように、天下の茶人になったとか。
『古田家譜』に、
利休の死後、秀吉が織部に
「利休が伝ふところの茶法、武門の礼儀薄し、
その旨を考へ茶法を改め定むべし」
とあるのだそうです。
以後、武家茶道を確立し、茶の湯名人として一家を成すのだとか。
慶長3年(1598年)、秀吉が死ぬと、家督を長男の山城守嗣子重広に譲り隠居したようですが、
関ケ原合戦で徳川方に属し、七千石加増され、
隠居料三千石を合わせて一万石となるのだとか。
慶長15年(1610年)、二代将軍徳川秀忠に点茶の式を伝授し
「天下一の茶人」と称されたみたいです。
織部は、千利休の「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行し、
茶碗をゆがませ、武家好みの多様な模様と異国趣味を用いた茶碗を生み出すなど、
秩序に収まらない自由闊達な発想を持っていたそうです。
この発想に危機感を抱いたのが徳川家康で、いちゃもんをつけて織部(72歳)を自害させたようです。
当時織部は、茶の湯を通じて朝廷・貴族・寺社・経済界・大名などに
多大な影響力を与える存在となっていて、
幕府からその影響力・存在を危険視されるようになったためみたいです。
■利休と古田織部
利休と古田織部(左介)の出会いは不明だそうですが、
天正10年(1582年)8月27日の『妙喜庵功叔宛利休書状』に
「古佐よりの御状」とあるそうで、
これ以前に、面識があったと思われるのだとか。
師弟の交流は、遠く離れていても絶えることはなかったようで、
「武蔵鐙(あぶみ)の文」は、
武蔵国を転戦中の織部へ、利休が与えた書状だそうです。
天正19年(1591年)、利休の追放が決まると、
利休と親交のあった諸将が秀吉を憚って現れない中、
古田織部と細川忠興の二人だけが堂々と利休の見送りをしたみたいです。
NO 244 「茶人伝30」瀬田掃部ってこんな人
瀬田掃部
1548年頃~1595年8月10日
瀬田掃部は、利休七哲の一人だとか。
瀬田正忠(せた まさただ)は、戦国時代の武将で、通称・清右衛門だそうです。
後に、名を伊繁(これしげ)としたようで、掃部というのは官位に由来するのだとか。
高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、
1584年、小牧・長久手の戦いに従軍しているようです。
豊臣秀吉の関白就任に伴い、従五位下掃部頭に叙任されたそうです。
1587年の九州征伐、1590年の小田原征伐等に従軍したみたいです。
小田原征伐では、徳川家康らが落城させた相模国玉縄城に、
古田重然と共に入り守備についたそうです。
1588年、後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に、
芝山宗綱と共に先導役を務めたみたいです。
豊臣秀次と親しく、1595年、秀次の粛清に連座して処刑されたようです。(秀次事件)
豊臣秀次は、豊臣秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子みたいです。
■利休と瀬田掃部
利休と瀬田掃部の出会いは不明だそうですが、
1584年12月に、津田宗及の茶会に古田左介(織部)と招かれているそうで、
これ以前より茶の湯に親しんでいたようです。
また『茶道四祖伝書』織部伝書によれば、
1585年に、利休の勧めに従い、古田織部とともに奈良の松屋久政を訪ね、
松屋名物の1つ「鷺の絵」を拝見しているようで、
利休との師弟関係は、それ以前からあったみたいです。
また、瀬田掃部は、茶杓削りの名手だったそうで、
比較的多くの茶杓が、現在まで伝えられているようです。
2018年6月22日金曜日
NO 243 「茶人伝29」芝山監物ってこんな人
芝山監物
戦国時代~安土桃山時代の武将。
生年月日 不明。
芝山監物は、利休七哲の一人だとか。
芝山宗綱(しばやま むねつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将だそうです。
通称は、源内、監物で、初名は俊一のようです。
摂津国の人で、初め石山本願寺に属したみたいです。
織田信長に仕え、1578年、荒木村重討伐に従軍したそうです。
のち豊臣秀吉に従い、御咄衆として1万石を給せられたとか。
1581年に、津田宗及や山上宗二らを招いて茶会を開いているようです。
1584年に行われた大坂城の茶会にも参加したみたいです。
1588年、後陽成天皇の聚楽第行幸には、秀吉の前駆を務めたそうです。
■所持した茶道具
利休から、長次郎作の名物黒楽茶碗「雁取」を贈られているそうです。
「雁取」という名は、利休に茶碗の返礼として
「鷹野の雁」を贈ったところ、利休が
思ひきや 大鷹よりも 上なれや
やき茶碗めが 雁取らんとは
という狂歌を作ったことから付いた名前だとか。
『松屋会記』の久重茶会記、寛永17年4月17日、三斎会の条に、
一休の「初祖菩提達磨大師」をめぐってのエピソードがあるそうです。
NO 242 「茶人伝28」高山右近ってこんな人
戦国時代~江戸時代初期の武将。
キリシタン大名。ジュスト(ユストとも)
1552年~1615年2月4日
高山右近は、利休七哲の一人だとか。
高山右近の通称は、彦五郎だそうです。
有名な「右近」の呼び名は私的な名で、
正式な官位としては大蔵少輔までなっているみたいです。
諱は友祥、長房、重友など複数伝わるようですが、
文書等で確認できるのは「重友」のみなのだとか。
主君は、松永久秀→和田惟政→荒木村重→織田信長→
豊臣秀吉→前田利家→利長
らに仕え、数々の戦功を立てたそうです。
■キリシタン大名
父・高山友照が、熱心なキリスト教徒であった影響で、11歳のときに受洗、
ドン=ジュスト、ジュスト=ウコン殿と、宣教師たちから畏敬の念をもって呼ばれていたとか。
1573年頃からキリシタン大名として有名になり、
牧村兵部 ・ 蒲生氏郷 ・黒田如水・ 織田有楽 ・小西行長などを、
茶を介してキリシタンとしたみたいです。
摂津高槻城内には、天主堂やセミナリオ(神学校)などが造られ、
1581年には、領民二万五千人の内、一万八千人がキリシタンになったようです。
「バテレン追放令」を受け、棄教をすすめる秀吉の使者に
千利休がたったとのこと。
再々の勧めにも応じず信仰を守った右近は、明石六万石の城主の立場を捨てて諸国を流浪、
加賀の前田家に客将として招かれるそうです。
藩主・前田利家のとりなしで、小田原攻めや朝鮮出兵に参加するようです。
徳川家康の「キリスト教禁止令」により国外追放され、
最後はマニラで63歳の生涯を終えたそうです。
その後、右近の家族は日本への帰国を許され、
現在は「石川県羽咋郡志賀町代田」「福井県福井市」
「大分県大分市」に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
NO 241 「茶人伝27」牧村兵部ってこんな人
牧村兵部
1545年~1593年8月6日
牧村兵部は、利休七哲の一人だとか。
牧村利貞(兵部)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名で、
別名は、政治・政吉・高虎だそうです。長兵衛や兵部大輔は、通称だとか。
父は稲葉重道で、のち牧村政倫の後嗣となるようです。
初め織田信長に仕え、天正12年(1584年)に、豊臣秀吉の馬廻衆となるみたいです。
また、高山右近の勧めで、キリシタンとなったそうです。
兵部は1590年に、二万石を与えられて伊勢の岩手城に入るそうですが、
文禄・慶長の役に出陣、12名いた舟奉行の一人として名護屋に従軍、
渡海して、かの地で病没しているようです。
遺体は京都に送られ、生前、弟一宙を開山として建立していた妙心寺雑華院に葬られたそうです。
■利休との関係
利休と兵部の出会った時期などは不明だそうですが、
1578年6月に、津田宗及の亭主の会に出席しているそうで、
それ以前に、茶の湯に親しんでいたと思われるみたいです。
利休とは懇意だったようで、利休が自宅に松を植える手伝いを依頼したものや、
兵部が葉茶壺の目利きを頼んだ手紙も残っているそうです。
利休の手紙には兵部が茶会を催すことが書かれていたそうで、
他にも茶会に出ていたみたいです。
『細川三斎御伝授書』によれば、
茶室の突上窓は、兵部が書院の屋根に切ったのを見た利休が
「小座敷」に切ったそうです。
兵部の創意に優れた一面といえるようです。
2018年6月21日木曜日
NO 240 「茶人伝26」細川三斎ってこんな人
細川三斎
1563年11月28日~1646年1月18日
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将
細川三斎は、利休七哲の一人だとか。
正保2年(1645年)に83歳で没した忠興は、
遺言によりその遺歯が高桐院に埋葬され、
以後細川家の菩提寺として庇護される。
大徳寺高桐院
玉甫紹琮(ぎょくほじょうそう)
細川藤孝(幽斎)のために慶長7年(1602年)建立した寺で、
玉甫紹琮を開山とする。玉甫紹琮は幽斎の弟で、三斎のおじにあたる。
室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれたみたいです。
以後、足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、
現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた人だそうです。
足利氏の支流・細川氏の出身で、正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)だとか。
室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、
その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復したようです。
また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎)としても有名で、利休七哲の一人に数えらるみたいです。
茶道の流派三斎流の開祖で、その著書は少なく、本人が書いたのは『数寄聞書』位しかないとか。
(一応、川口恭子の論文「細川三斎の茶書について」に詳しく載っていたりする。)
北野大茶会の折には松向庵という名の茶席を設け、後年「松向殿」呼ばれたりしたそうです。
松屋久重著『茶道四祖伝書』には「天下一気の短い人物」と書かれているとか。
ちなみにこの四祖というのは、利休・織部 ・三斎・遠州の四大茶人のことみたいです。
晩年の1637年に奈良で開かれた茶会では、
徳川秀忠から拝領した「金渡墨蹟(きんわたしのぼくせき)」、利休が譲った「開山阿弥陀堂釜」、
茶碗は信長が普段使っていたもの、
金森可重が小壷狩り入手した「山井肩衝(やまのいかたつき)」、利休作の茶杓「命トモ」、
利休と一緒に町で見つけた建水、利休が持っていた「根太香合」など
利休が持っていた多くの茶道具を使ったそうです。
古田織部が利休旧蔵の道具を使うことがなかったそうなので、
かなり対照的だったみたいです。
「茶の湯の上手な昔の人たちが死んでしまったので、古田織部が名人になった」とも言ったとか。
2018年6月19日火曜日
NO 239 「茶人伝25」蒲生氏郷ってこんな人
蒲生氏郷
戦国時代~安土桃山時代の武将。
1556年~1595年3月17日
蒲生氏郷は、利休七哲の一人だとか。
墓所は大徳寺黄梅院。
織田信長 の人質になるけど、「尋常の子供ではない」と 信長 に認められ、
信長の娘「冬姫」を妻にもらったそうです。
蒲生賢秀の三男で、初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)、
また、キリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)だとか。
ここからはちょっと歴史の勉強を・・・
1568年の北畠具教・具房との戦いにて初陣、
1569年の伊勢大河内城攻め、
1570年の姉川の戦い、
1573年の朝倉攻めと小谷城攻め、
1574年の伊勢長島攻め、
1575年の長篠の戦いなど武勲もすさまじく、
結局は会津若松九十二万石の大大名になったみたいです。
1582年の本能寺の変では、信長の妻子を保護したようです。
その後、豊臣秀吉に仕え、秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えたそうです。
1584年 小牧・長久手の戦い、
このころ、高山右近らの影響で大坂においてキリスト教の洗礼を受けるみたいです。
1585年 紀州征伐と、富山の役
1587年 九州征伐
1590年 小田原征伐
1592年 文禄の役で、肥前名護屋へと出陣
1593年 会津に帰国したが病状が悪化
1594年 春に養生のために京都に上洛
文禄4年(1595年)2月7日 伏見の蒲生屋敷において、病死。享年40歳。
今で言うところの直腸癌、又は膵臓癌だったみたいです。(『玄朔道三配剤録』より)
1585年頃、名前を賦秀から氏郷と名乗りを改めているようです。
これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く
「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからだったみたいです。
千少庵を保護し、徳川家康と秀吉 へのとりなしに尽力した氏郷は、
茶道方面の著書『蒲生氏郷茶日記』(茶の注文書)で、
当時の宇治茶の品質等級「極上」「白袋」などを注文したりもしているようです。
■文芸について
蒲生氏郷は、若年から岐阜瑞龍寺の南化玄興に参禅し、
三条西実枝、紹巴らについて和歌を学んだようです。
茶道は、南化和尚の計らいで、宗養・里村紹巴に師事したそうで、
その後、千利休に師事したみたいです。
2018年6月18日月曜日
NO 238 「茶人伝24」千道安ってこんな人
千道安
戦国時代~江戸時代初期の茶人。
1546年~1607年3月14日
墓所は堺市南宗寺。
千道安 の「剛・動の茶」に対して、
少庵は「柔・静の茶」と評される。
千利休の長男で、母は宝心妙樹だとか。
始め紹安と名乗り、後に道安といったようです。
号は、可休斎、不休斎、眠翁、泉南道安老人などがそうです。
利休と折り合いが悪く若い頃に家を出たようです。
のちに利休と和解し、茶の道を修め豊臣秀吉の茶頭八人衆に数えられるまでになったそうです。
以下、いろいろ説があるのですが、ウィキペディアによると、
利休切腹後、金森長近に預けられたようで、蟄居、謹慎を命じられたみたいです。
1594年、赦されて堺に戻り、千家の家督を継いだそうです。
1601年、細川三斎に招かれ、茶頭となり、豊前水崎で三百石を拝領したようです。
1607年、豊前の地にて死去したとか。
となっているみたいです。
「道安囲」は道安の作意とされ、
袖壁で隔てられた次の間で点前をするという謙虚な気持ちを表しているとか。
後に、徳川将軍の茶道師範となり、
門下として桑山宗仙(くわやま さだはる)・金森可重(かなもり ありしげ)らを輩出しているとのこと。
桑山宗仙:片桐石州の師匠。
金森可重:金森長近の長男が戦死したため、その養子に迎えられた。
NO 237 「茶人伝23」千少庵ってこんな人
千少庵
安土桃山・江戸前期の茶人。
1546年~1614年9月7日
千少庵は、千利休の養子にして女婿。千宗旦の父だそうです。
通称、吉兵衛、法号は宗淳のようです。
少庵は、春屋宗園禅師から授けられた道号だそうです。
利休賜死の後、千家を再興する中心人物だとか。
実父は能楽師の宮王三郎三入みたいですが、松永久秀説もあるとか。
母・宗恩が利休の後妻に入ったため、利休の養子となったようです。
義兄の道安とは同い年だとか。
先天的に片足に障害を持っていたそうです。
また、相続関係の資料から千家内での立場が弱かったみたいです。
妻は利休の娘・お亀で、二人の間には宗旦(兄)と山科宗甫(弟)が生まれているとか。
墓所は大徳寺聚光院にあるそうです。
竹花入銘園城寺は少庵に与えられたものでみたいです。
■夫婦の関係
少庵夫妻は不仲だったようで、
利休自刃前に、妻(お亀)は少庵の家を出ていたようです。
それを少庵もかくべつ意にもかけていなかったそうですが、
一乱が起こったので狂乱して舞い戻り、
子の宗旦と一緒に死ぬ覚悟で籠居したみたいです。
やがて少庵が許されたので、何事もなく済んだという話みたいです。
当時は「女の処存比類無き事」ともっぱらの噂になったようです。
NO 236 「茶人伝22」千宗恩ってこんな人
千宗恩
? ~1600年3月6日
利休の室(後妻)で、生活文化として、茶の湯に女性参加の道を開いた人だとか。
名は、おりき。元は能役者・宮王三郎三入(観世流の小鼓の名手)の妻だったようです。
松永久秀の妻だったとする説もあるそうです。
「宗恩と利休」についてに、利休が宗恩と再婚し、子供をもうける話を記載しています。
宗恩は、千家ゆかりの女性で、宮王三郎三入との間に、
子供・千少庵を産み、その千少庵は、利休の前妻の娘「お亀」と結婚、
息子「千宗旦(兄)」と「山科宗甫(弟)」をもうけたとか。
■宗恩の創作品
茶道具の中には、宗恩によって創出されたものが、いくつもあるそうです。
例えば、大津袋を仕立てたり、茶入の仕覆のマチをあけたり、
短檠の上部を矢筈に切ったり、新たな帛紗を提案したり、
茶入仕覆や帛紗寸法の改良をしたり(「帛紗の大きさ」について参照)、
香炉の足を切ったり(「千鳥の香炉」について参照)、
といったものは、全て、宗恩が創出したものだそうです。
NO 235 「茶人伝21」東陽坊長盛ってこんな人
東陽坊長盛(とうようぼうちょうせい)
安土・桃山時代の天台宗の僧・茶人。
1515年~1598年
暦 グレゴリオ暦 ユリウス暦 ユリウス通日 干支年 干支日 六曜 曜日
慶長3年4月5日 1598年5月10日 1598年4月30日 2304847 戊戌 庚申 友引 日曜日
京都真如堂東陽坊の住職で、利休の弟子だそうです。
濃茶を「吸茶」にした利休に対し、
薄茶に応用したのが東陽坊長盛だとか。薄茶の先達ともいわれるようです。
豊臣秀次の家臣たちを茶事に呼んだことがあり、忙しい人ばかりだったことから、
「薄茶を大服に点て、のみ回す」よう言ったそうです。
これを聞いた利休がこの作意を誉め称え、
世間にも知られて流行したみたいです。
この薄茶ののみ回しを「東陽にする」と言うらしいです。
長盛が所持した道具には「東陽坊」の名があり、
黒楽茶碗(長次郎作)や釜(辻与次郎作)なんかがそれみたいです。
京都市左京区の真如堂に墓。
2018年6月17日日曜日
NO 234 「茶人伝20」今井宗久ってこんな人
今井宗久
1520年 ~1593年8月31日
『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』など。墓所は堺市堺区の臨江寺。
今井出羽守宗慶の三男として、大和国今井町に生まれたようです。
近江国高島郡今井市城を領したので、氏を今井と称したのだとか。
堺に出て納屋宗次の居宅に身を寄せ、武野紹鴎に茶を学び、納屋宗久と称して茶会などに出席、
紹鴎の女婿となった宗久は、紹鴎の家財茶器などを悉く譲り受けたそうです。
初めは、当時軍需品としての需要があった甲冑用の鹿皮など、皮製品販売を扱っていたそうで、
それによって財をなし、各地の戦国大名とのつながりを深めていったようです。
将軍・足利義昭にも茶湯をもって近侍していたとか。
その後、納屋業(倉庫兼金融業)、薬種(硫黄)、火薬、鉄砲などの商売を行い、
納屋衆の中で最高の財力を誇ったようです。
天文23年(1554年)に、大徳寺塔頭大僊院に170貫を寄進し、
昨夢庵寿林(寿林宗久・昨夢斎)の号を授かるようです。
弘治元年(1555年)に、武野紹鴎が亡くなると、紹鴎の子・宗瓦(5歳)の後見人となり、
武野家の私財・茶器などの管理一切を任されるそうです。
また、宗久好の洞棚(ほらだな)などの製作もしており、
なかなかの茶人だったみたいです。
茶会記録には『今井宗久茶湯書抜』や『今井宗久日記』があるとか。
文禄2年(1593年)に死去。墓所は大阪府堺市の臨江寺にあるようです。
NO 233 楊枝の違いってこんなの
ここでは楊枝入れについて
■数百円台の楊枝入れ
百円ショップなどでも売っていて、プラスチック製や木製などが主流のようです。
丸型の場合は、蓋が付いていることが多く、一本ずつ取り出せるように
蓋の中心に穴がある場合もあるみたいです。
四角型の場合、目の荒い木製で蓋が付いたものがあるそうです。
陶磁器などの楊枝入れもあり、数百円台では蓋は付かないみたいです。
備前やミカゲ、中には白天目の楊枝入れもあるとか。
白釉がかかった楊枝入れには手持ちが付いたものもあり、
私から見ると、数百円とは思えない出来のものが多いように思います。
■千円前後の楊枝入れ
陶磁器の他、硝子やクリスタル製などが主流のようです。
手桶型の「手桶天目楊枝入れ」「手桶白磁楊枝入れ」などの様に形が独特のものや、
益子・瀬戸などの陶磁器、白釉・柿釉・青磁の単色塗りがあるみたいです。
茶道で使う楊枝入れはこのクラスになるようです。
木製で誰かの銘が入った楊枝入れなどもあるそうです。
■数千円台の楊枝入れ
ブラスシルバー(真鍮や銀)、陶磁器製が主流のようです。
陶磁器は単色ではなく、錦万歴・一筆刷毛目・呉須線・染錦十草など
模様の入ったものが多いようです。
ブラスシルバー製は、洋風のものが多く、プレート型やグラス型があるみたいです。
蓋付きで四角型の場合も、ただ蓋が取れる形以外に、
観音開きになったものもあるそうです。
■一万円前後の楊枝入れ
ごく稀に「なぜこんなにするの?」といった製品があるようです。
NO 232 帛紗ばさみってこんなの
茶道の稽古や茶席において、
必要となる小物を一まとめに入れて携帯する袋の総称だそうです。
茶道具以外に化粧用品やチケットなどを入れて、
ポーチ代わりとしての用途も見られるとか。
帛紗挟みは比較的小ぶりの物を指すそうで、
「三つ折り」「つづれ」「二つ折り(利休型)」などに分類されるようです。
男性用はやや大ぶりで寒色系、女性用はやや小ぶりで暖色系などの違いはあるみたいですが、
形や使い方の違いはほとんどないとのこと。
NO 231 帛紗と扇子の違いってこんなの
帛紗は元々、貴重品などが収蔵された箱上に掛けられていた風呂敷だったそうです。
その風呂敷が贈答品を運ぶ時の、
汚れや日焼け防止として用いられるようになり、
1枚の布地から裏地付きの絹製で、
四方に亀房と呼ばれる房付きのものに変わり、
慶弔行事の金品を贈る時の儀礼や心遣いとして、
広蓋(黒塗りの盆)と併せて用いられるようになったのだとか。
一般に「袱紗」というと、以下の六通りの言葉を指すみたいです。
1.物を包んだり(包み袱紗)、進物の上に掛けたりする(掛け袱紗)方形の儀礼用絹布。
2.茶道で茶道具を拭い清めたり、茶碗その他の器物を扱うのに用いる縦×横=およそ九寸×九寸五分の絹布。
帛紗。利休形は八寸八分×九寸三分。使い帛紗。出し帛紗。
3.糊を引いていない柔らかい絹。
4.他の語に冠して用いる、本式でないもののことを指す語。
5.和菓子の一種。つやふくさ。
6.料理用語。袱紗仕立て。袱紗卵。袱紗料理。
ということで、ここでは当然、2.の茶道の袱紗(帛紗)について説明を続けようと思います。
用いる裂地は主に塩瀬(畝のある羽二重)で、男は紫色、女は朱色、老人は黄を基本とするそうです。
蹴鞠・茶道・香道などで用いる扇で、実際には開いて煽ぐような事はないとのこと。
それぞれ定められた扇を持つようです。
茶扇のサイズは「尺寸」「六寸五分」「 六寸」「 五寸」の四種があるそうです。
NO 230 「茶人伝19」津田宗及ってこんな人
津田宗及
安土桃山時代の堺の商人、茶人
~1591年6月11日
津田宗及は、天王寺屋宗及とも言い、
千利休・今井宗久とともに茶湯の天下三宗匠と称せられたそうです。
武野紹鴎の子・宗瓦の門人だった父・津田宗達に茶道を教わり、
大徳寺住持の大林宗套には禅を学んだ人だそうです。
後に天信の号を与えらたとか。
直接、武野紹鴎に教わったとも言われているようです。
1535年に書かれた『念仏差帳日記』にある、
材木町の天王寺屋助五郎は、津田宗及のことだといわれているみたいです。
天王寺屋は堺でも有力商人だったそうで、
父・津田宗達が豪商へと育て上げ、息子・津田宗及は、
さらに発展させたようです。
墓は堺市の南宗寺にあるそうです。
NO 229 「茶人伝18」丿貫ってこんな人
丿貫
生年月日 不明
丿貫は、戦国時代後期から安土桃山時代にかけての伝説的な茶人だそうです。
丿桓・丿観の他、別寛(べちかん)とも言われるみたいです。
その住居は京・近江の境である山科にあったようで、
当時、奇行をもって知られていたみたいです。
日常生活もわびに徹し、いつも手取釜一つで食事を済ませ、
終わると谷川の清流で釜を清めて炉に懸け、
茶の湯を嗜んでいたそうです。
藪内竹心『源流茶話』に
「丿貫は、侘び数奇にて、
しいて茶法にもかかわらず、器軸をも持たず、一向自適を趣とす、
にじり上り口に新焼の茶壺をかざりて、関守と号す、
異風なれ共、いさぎよき侘数奇なれば、
時の茶人、交りをゆるし侍りしと也」
とあるみたいです。
「風雅は、身とともに終わる」として、
自分が書いてきた短冊類を買い取って燃やした。
2018年6月16日土曜日
NO 228 「茶人伝17」豊臣秀吉ってこんな人
豊臣秀吉
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人
1537年3月17日~1598年9月18日
まずは、秀吉の出自から説明しようかと思います。
■父・木下弥右衛門について
秀吉の父・木下弥右衛門は、『尾張群書系図部集』では、
織田達勝に仕えた中村吉高の子だそうで、
織田家の足軽、あるいは雑兵だったが、ある合戦において膝を切断、
あるいは足の裏を負傷したために辞職し、故郷に帰農したとあるそうです。
木下弥右衛門は、故郷(尾張国愛知郡中村郷の下層民の家)で、仲(なか)と結婚、
藤吉郎(豊臣秀吉)・とも、小一郎、旭を授かるようです。
天文12年(1543年)1月2日、秀吉が7歳の時に死去するみたいです。
■信長に仕官するまで
その後、母・仲は竹阿弥と再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、
いつも虐待されていたようです。
天文19年(1550年)に家を出て、侍になるために遠江国に行ったようです。
当初、木下藤吉郎と名乗り、
今川氏の直臣飯尾氏の配下・松下之綱に仕えるのですが、
出奔し、織田信長に仕官するようです。
1554年頃から織田信長に小者として仕える秀吉は、
清洲城の普請奉行、台所奉行などを率先して引き受けて、
大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角をあらわしていったようです。
■功績を挙げる秀吉
信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで、
信長は秀吉に大いに嘉(よみ)したそうです。
以降、墨俣一夜城建設(斎藤龍興との戦い)や、
近江箕作城攻略戦での活躍(観音寺城の戦い)、
金ヶ崎の戦い、姉川の戦い、小谷城の戦いと
戦(いくさ)三昧の日々を送るようです。
天正元年(1573年)、長浜城の城主となるものの、
長篠の戦い、手取川の戦い(戦闘には不参加)、
信貴山城の戦いと続くみたいです。
その後、 信長に中国地方の攻略を命ぜられ播磨国に進攻、
上月城の戦い(第一次)で毛利軍を破るようです。
NO 227 「茶人伝16」千利休ってこんな人
千利休
1522年~1591年4月21日
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人
茶湯の天下三宗匠(今井宗久、津田宗及、千利休)
抛筌斎利休宗易(ほうせんさい)こと千の利休は、わび茶(草庵の茶)の完成者。
今井宗久 ・ 津田宗及 と共に茶湯の「天下三宗匠」や「茶聖」と称せられたそうです。
幼名は与四郎。利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、
町人の身分では参内できないことから、正親町天皇から与えられた居士号だそうです。
利休の名の由来は「名利、既に休す」や「利心、休せよ」の他、
『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだとも言われているようです。
利休は常々
「茶の湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は草の小座敷にしくことなし」
と愛唱していたとか。
信長 の時代、 今井宗久 の紹介で信長に拝謁し茶頭となったそうです。
豊臣秀吉 の時代には、重要な側近のひとりとして、政治面でも影響力を持つようになるとか。
NO 227 「茶人伝16」千利休ってこんな人
千利休
1522年~1591年4月21日
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人
茶湯の天下三宗匠(今井宗久、津田宗及、千利休)
抛筌斎利休宗易(ほうせんさい)こと千の利休は、わび茶(草庵の茶)の完成者。
今井宗久 ・ 津田宗及 と共に茶湯の「天下三宗匠」や「茶聖」と称せられたそうです。
幼名は与四郎。利休の名は、1585年の禁中茶会にあたって、
町人の身分では参内できないことから、正親町天皇から与えられた居士号だそうです。
利休の名の由来は「名利、既に休す」や「利心、休せよ」の他、
『茶経』の作者とされる陸羽にちなんだとも言われているようです。
利休は常々
「茶の湯は台子を根本とすることなれども、心の至る所は草の小座敷にしくことなし」
と愛唱していたとか。
信長 の時代、 今井宗久 の紹介で信長に拝謁し茶頭となったそうです。
豊臣秀吉 の時代には、重要な側近のひとりとして、政治面でも影響力を持つようになるとか。
NO 226 「茶人伝15」織田信長ってこんな人
織田信長
1534年~1582年6月21日
戦国時代~安土桃山時代の武将。
三英傑の一人
三英傑:織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
1568年に足利義昭を奉じて上洛を果たした時に、
松永久秀が、降伏の証として大名物「九十九髪茄子(つくもなす)」を、信長に献じるそうです。
また、堺の今井宗久から「松島の茶壷」と「紹鴎茄子」を献じられるみたいです。
これが、信長と茶の湯との出逢いとなるでしょうか。
以後、松井友閑・丹羽長秀に命じて「名物狩り」を行うようです。
■名物狩りと御茶湯御政道
当時は、京都や堺に集中的に名物茶具が蓄積されていたようで、
信長は、武力を背景に名物を収集していくそうです。
その結果、信長のもとに集められた茶具は、二百種以上に及んだといわれ、
京都の妙覚寺や相国寺での茶会は、収集成果の披露を兼ねたものだったようです。
また、茶の湯を政治的に活用した「御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)」では、
信長に許しを得ないと、家臣でも茶の湯を行えないという命令を下したそうです。
これが、全国に「茶の湯」を広めるきっかけとなり、
武士にとって茶の湯開催は功労の証となったようです。
NO 225 「茶人伝14」北向道陳ってこんな人
北向道陳
室町時代の茶人。堺の舳松町(へのまつちょう)に住む。
千利休の最初の師。
「わび茶」「草庵の茶」に対し、
「台子の茶」「書院の茶」を伝えていたとされる。
1504年~1562年
本姓は荒木と言う医者で、堺で北向の家に住んでいたことから「北向」と名乗ったそうです。
能阿弥の弟子の島右京(空海)に東山将軍家の茶の湯を学び、千利休(当時は、与四郎)に伝えたみたいです。
利休は当時17歳だったようです。
利休がはじめて茶会を開いた時、古老であるということで、道陳に意見を聞いたことがあったそうです。
そのとき道陳は、利休を評して、
「やがて並ぶ者のない茶人となるであろう。
しかし大茶入から茶をたぶたぶとすくって点てるのだけはよくない。」
といったそうです。
以来、利休は道陳のもとで稽古に励んだようです。
道陳は、59歳で亡くなるのですが、
墓は菩提寺であった堺の妙法寺(日蓮宗)に、
今もあるそうです。
2018年6月15日金曜日
NO 224 「茶人伝13」武野紹鷗ってこんな人 コピー
武野紹鴎
1502年~1555年
戦国時代の堺の豪商・茶人。
武野紹鴎は、1502年、大和国吉野郡に生まれたそうです。
父は信久、母は大和の豪族中坊の娘だとか。
はじめの名は仲材、通称・新五郎といったようで、武田伊豆守信光の後裔なのだとか。
父信久は紹鴎が11歳のとき、応仁の乱に際会して親族を失い、
大和国の豪族中坊の庇護を受けるようです。
その後信久は、同族の三好氏の勢力下にあった泉州堺に移り、
武具製造に必要な皮革を商って財をなし、
併せて都市国家堺の町人として軍事面で指導的な役割を担ったようです。
紹鴎が24歳になったとき、京都四条室町上(現在金剛流宗家)に屋敷を構えさせ、
財力を背景として紹鴎の栄達をはかったみたいで、
29歳のとき従五位下因幡守の官位を得たそうです。
『実隆公記』には本願寺について出陣したとの記述もあるとか。
当初、和泉国に住んでいたのですが、27歳の時、若いころから志していた連歌を
当時随一の文化人であった三条西嶺隆に学び、14年間、在京するそうです。
またこの時、紹鴎は、茶の湯を藤田宗理・十四屋宗伍に学んで、頭角をあらわし、
珠光の為し得なかった「わび茶」を目指して、大きくその一歩を踏み出すのだとか。
32歳で剃髪、脱俗を志向、孫の宗朝の自筆稿本『尾張雑集』に、
「大徳寺の古岳宗亘に参禅した」とあるそうです。
紹鴎は「紹鴎茄子」など六十種もの名物を所蔵する富豪である一方で、
無一物の境涯を理想とし、紹鴎の「わび」は富裕と簡素の両極の間を楽しむことにあったようです。
36歳で父と師実隆を失うと、古岳和尚の法嗣大林宗套を法援し、堺に南宗寺が建立されるそうです。
大林宗套に一閑居士の号を授けてもらったようです。
(※古獄和尚は、大徳寺七十六世で、堺の南宗寺の前身となる南宗庵を開き、
堺衆に膳を説いた人だそうです。)
その後、和泉国の泉南に帰り、そこに住むみたいです。
住まいが夷嶋(えびすしま)に対するので、大黒庵と名付けたのだとか。
珠光の茶法に追加して一巻を著し、
茶道の中興となったようです。
武野紹鴎は、1555年10月、54歳で亡くなるようです。
遺偈に、
「曾て弥陀無碍の因を結びて 宗門更に活機輪を転ず
量りを知る茶味と禅味と 松風を吸尽す心塵れず」
とあるそうです。
NO 223 「茶人伝12」松屋久政ってこんな人
松屋久政
1521年~1598年
安土桃山時代の商人・茶人。
大和奈良の塗師(ぬし)松屋の三代目
茶会記『松屋会記』の執筆。
天正15年には息子・松屋久好とともに北野大茶会に参会。
四大茶会記
天王寺屋会記・松屋会記・今井宗久茶湯日記抜書・宗湛日記
奈良の茶の湯を村田珠光から受け継ぐ塗師の松屋久政は、
京都堺の影に隠れがちな南部の茶を強く主張した人だとか。
松屋久政は、通称を源三郎というそうです。
松屋の発祥は、応仁の乱頃にはじまり、
のち東大寺鎮守八幡宮(手向山神社)に仕えて神人(じにん)となり、
家業のかたわら茶の湯に励んだようです。
茶会記『松屋会記』によると、
十四屋宗伍・武野紹鴎・千利休らの茶会に、
参じていたようです。
NO 222 釜鐶のつけ方ってこんなの
動画は初炭手前で紙釜敷に
釜を載せるシーンです。
鐶に、風炉・炉の別はないようです。
鐶の材質は、鉄のほか、真鍮・南鐐・砂張などがあり、水屋用の鐶は、
釜を傷めないように鉄より柔かい真鍮の輪を使うそうです。
鐶には、いろいろな呼び方があって、
鐶の打ち方によって「石目」「槌目」「空目」と呼んだり、
鐶の形によって「大角豆(鉈豆)」「竹節」「捻鐶」「蜻蛉鐶」「巴鐶」「轡鐶」
「常張鐶」「割鐶」「虫喰」「素張」「大鐶」なんて呼んだりするみたいです。
利休形の「大角豆鐶」が標準で、
真の鐶として、普通の鐶と合わせ目が逆になっている左鐶もあるとか。
NO 221 「茶人伝11」鳥居引拙ってこんな人
鳥居引拙
戦国時代の茶人。村田珠光の弟子。屋号は天王寺屋
村田珠光の後、茶の湯を継ぐのがこの引拙だとか。
山上宗二著『山上宗二記』に茶の湯の名人と言われるほどで、
「茶湯物ノ数寄者ハ古今ノ名人ト云、
珠光ならびに引拙、紹鴎也」
とあるそうです。
『山上宗二記』に
「引拙ノ時迄八珠光ノ風体也、
其後、紹鴎悉改令追加畢、
鴎ハ当世ノ堪能、先達中興也」
とあるそうです。
片桐石州著『石州三百ヶ条』第3巻100条に
「珠光・引拙・紹鴎の心の事
此三人共に本付所趣向有。
珠光ハ
見渡せば 花も紅葉も なかりけり
浦の苫屋の 秋の夕暮
此心を用、是則さひたる身体を専に用之也。利休愛す。
引拙ハ
淋は その色としも なかりけり
横立山の 秋のゆふくれ
紹鴎ハ
村雨の 露もまた干ぬ 槙の葉に
露立のほる 秋の夕暮
是則すゝきあけてさハやかなる身本也。
道安好み紹鴎に本つく也。
是、茶の湯根元也。
如此いつれも宗匠其本つく處有之て用、
後世子弟たるもの此意味を常に可工夫也」
2018年6月14日木曜日
NO 220 茶巾盥ってこんなの
茶巾だらい(ちゃきんだらい)は、
茶巾を洗ったり、浸したりす盥(たらい)のことだそうです。
茶巾洗(ちゃきんあらい)とも言い、
唐銅や木のものがあるそうです。
利休好は赤杉木地の曲物で、
直径七寸五分、高さ二寸七分、厚さ一分四厘、
桜皮で綴じてあり、綴目は十七となっているようです
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「茶巾洗 利休形スギの曲、金は千家所持サハリ写しなり、焼物染付付物等も用ゆ」
とあるとか。
湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「利休好茶巾洗 さし渡七寸五分、高二寸七分、厚一分四厘、とじ十七」
とあるみたいです。
NO 219 釜据と水屋鐶ってこんなの
水屋で釜に水を張るときや、釜の後始末をするときに、釜をのせる木の枠の釜据。
利休形は、赤杉の柾材の廻り指しで、五寸二分五厘四方、高さ一寸、厚さ四分五厘、
内側は隅より九分よけて、上下とも二分えぐられていて、釜の底がここに当たるようになっているそうです。
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に「釜居 利休形両面杉」とあるようです。
湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「釜居 大さ五寸二分半、高さ一寸分中、厚さ四分半、かきさし廻り指し、
内方角九分よけて、上下二分クリあり」
とあるみたいです。
■水屋鐶
水屋鐶(みずやかん)は、水屋で用いる、釜の上げ下ろしのため、
釜の両端にある鐶付という穴に通す、
切れ目の入った真鍮製の輪のことだそうです。
釜を傷めないように柔かい真鍮の輪を使うのだとか。
NO 218 茶入に抹茶を入れるってこんなの
茶入は「濃茶器」「小壺」「擂茶壺(すりちゃつぼ)」などとも呼ばてるみたいです。
焼き物の種類として、5つに大別してるみたいで、
「唐物」「島物」「瀬戸」「後窯」「国焼」があるらしいです。
■唐物茶入
中国産の「唐物茶入」は、室町時代以前に日本に来たものが特に尊ばれてるみたいです。
「唐物」自体は宋・元・明時代の美術作品を指して、
産地が不明な舶来品なども唐物と言ったりしてるようです。
道元禅師に随って入唐し、加藤四郎右衛門(藤四郎)が、
唐の土と薬を持ち帰り瀬戸瓶子窯で焼いたものとの説あるようです。
1211年頃、瀬戸の里に加藤四郎右衛門景正がいて、
口兀手(伏せ焼きにし、口の上辺に釉がかからないもの)の茶入を焼き出したそうです。
このころ、四郎右衛門は技術が未熟だったため、
永平寺の道元和尚にしたがい、中国に渡り、
数年間中国に住んで「製陶法」を習得して帰国したようです。
その後、窯入れの際に、鞘に入れて底を下にして焼いたため、
茶入の口にも釉薬がかかるようになり、
陶器の職人として、非常に卓越した存在になったとのこと。
この時、中国から持ち帰った形や釉薬の優れた陶器を
「唐物」というのですが、
中国から持ち帰った土や釉薬で焼いたものも「唐物」と呼んだそうです。
後の人々は、加藤四郎右衛門の事を「藤四郎」と呼ぶようになるみたいです。
その後、藤四郎の子、藤右衛門、藤五右衛門、兎四郎などが
次々と焼き出すそうで、
唐物と呼ばれる茶入は、時代の新古、作者の区別も出てくるようです。
他に「漢作唐物」とか、朝鮮半島製の「高麗物」、
南蛮貿易とかで東南アジア・南中国・ルソン・琉球とかの「島物」なんかがあるようです。
国産は、古いのだと、瀬戸焼を中心にして唐物を模倣して作った古瀬戸や、
小堀政一が指導して作った茶入なんかもあるみたいです。
NO 217 中次に抹茶を掃くってこんなの
中次(なかつぎ)の名は、蓋と身の合わせ目(合口)が、
胴のほぼ中央にあることに由来しているそうです。
本来は内外とも全部真塗で単純な形のものだったようですが、
後には塗も溜・朱・摺漆などができたみたいで、
合ロの位置の移動や蓋の形状の変化も生まれたのだとか。
藪内竹心著『源流茶話』
「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」
とあることから、肩衝系の茶入の「挽家」の形が中次とするのが、一般的みたいです。
挽家は、中に入れる茶入の形に轆轤で挽いた木地に漆塗りした容器のことだそうです。
NO 216 平棗に抹茶を掃くってこんなの
平棗は、大棗をずっと低くしたもので、
大体直径が高さの二倍以上はあるものを言うようです。
棗などの木製茶器を薄茶器に用いる習慣は、あくまで江戸時代になって、 濃茶と薄茶を別の容器に入れるようになってからのようです。
ちなみに、棗に抹茶を掃く(入れる)時は、
大中小の棗は「小高く」
平棗は「なだらか」
中次(雪吹)は「杉盛(杉なり)」
なのだそうです。
NO 215 中棗に抹茶を掃くってこんなの
利休棗は大中小をさらに大中小に分けた9段階に分類されるらしいですが、
実質的には「大棗」「中棗」「小棗」の3種に分類するのが普通みたいです。
棗の名は、黒梅擬(くろうめもどき)科の植物の棗の実に形が似ていることから来ているとのこと。
この植物、初夏に芽を出すことから「夏芽」と書くこともあるとか。
秋に赤い楕円形の実がなって、
熟すと赤黒く乾燥して「動悸・息切れ・不眠・血圧」なんかに効く薬になるみたいです。
棗以前の木製の茶器という意味では
「頭切(づきり)」「薬籠(やろう)」「茶桶(さつう)」「金輪寺(きんりんじ)」
などのもあったみたいです。
NO 214 茶篩缶ってこんなの
必ずではないのですが、通常、抹茶は篩で漉します。
これは、抹茶が、非常に静電気を帯びやすく、よくダマになって、
舌の上に苦く残こる場合があるためみたいです。
以前は、平らな茶漉しの上に山盛りに持った抹茶を、茶さじでちょっとずつ漉していたのですが、
最近は、既製品として「振るだけ」とか「ハンドル式」とかが販売されているようです。
もちろん、普通の茶漉し(丸いざる型)に抹茶を入れて、振っても漉せます。
NO 213 「茶人伝10」石黒道提ってこんな人
石黒道提
室町時代の茶人。
村田珠光の弟子で、千本道提とも呼ばれるそうです。
茶庭の飛石を考案した人だとか。
■畠山政長
室町時代後期から戦国時代前期の武将・守護大名。
室町幕府管領、河内・紀伊・越中・山城守護。
足利氏の一門畠山氏出身
もと奈良千福寺の僧官で、管領・畠山政長に石黒三郎左衛門という武士として属していたようです。
■千本道提
その後、京都千本付近に、
米40石(12000坪の広さ)の田畑を隠居領としていたそうです。
千本道提の名は、この隠居領にちなんだ名前みたいです。
東京ドーム
14149.4375坪
■ルソンの壺
ある時、この40石の田畑と葉茶壺(ルソンの壺)を取り換え、
朝夕これを愛し、茶を喫して世をすごしたとか。
NO 212 「茶人伝9」古市播磨ってこんな人
古市播磨
1452年~1508年
戦国時代の僧、武将。
古市播磨は、古市澄胤(ちょういん)、播州、播磨公、播磨法師、播磨律師などとも称され、
村田珠光の一番弟子だったようです。
叔父宣胤のいる興福寺発心院に入り14歳で出家し、倫勧房と号したそうです。
そして、興福寺大乗院門跡の六方衆となるみたいです。
発心院は、古市家の菩提寺だったようで、ここで、文化的な素養も積んだようです。
1475年、兄の胤栄の隠居により退寺・還俗し、家督を相続したみたいです。
家督を継いだ古市播磨は、古市氏の棟梁として、宿敵筒井氏との戦いを続ける傍ら、
茶の湯を学び、盛んに茶会を催していたようです。
ただ、この茶会は「淋汗茶湯」だったそうです。
NO 211 「茶人伝8」村田珠光ってこんな人
村田珠光
1423年~1502年
室町時代中期の茶人、僧。「わび茶」の創始者。
僧侶なのに苗字がある珠光は、足利義政に召し出され茶を指南したとされているとか。
30歳の頃に禅僧となり、臨済宗大徳寺派の一休宗純に参禅
1468年に還俗してから村田珠光と名乗り始めたとともいわれているそうです。
ただ『山科家礼記』によると、珠光は一生涯僧侶であったという説もあるみたいです。
珠光は、杢市検校という琵琶法師の子で、奈良の称名寺から京都に移住した後、30代で茶の湯に邁進するようです。
当時、将軍家や有力大名たちが金に物を言わせて集める高級輸入品の唐物道具、
それらを飾り付ける室礼の方法などが流行していたようです。
その中にあって、義政の同朋衆・能阿弥により整備された「会所の茶」から、
能や連歌の影響を受け、一休宗純との関わりから禅を学び、
能や連歌の精神的な深みと茶禅一味の精神を追求し、「わび茶」の精神を作ったようです。
茶道は禅と同一であるべきとする「茶禅一味」も、珠光が境地を開いたそうで、
「わび茶」の「開山」とも称されるとか。
ちなみに「茶禅一味」とは、
『紹鴎画への大林宗套の賛』に「料知す。茶味と禅味同じなること。松風を吸い尽くして、こころいまだ汚れず」
『山上宗二記』に「すべて茶湯風体は禅也」
『南方録』に「小座敷の茶の湯は第一仏法を以って修行得道する事也」
『禅茶録』に「茶意は即ち禅意也。故に禅意をおきて外に茶意なく、禅味を知らざれば茶味も知られず」
などのこと。まさに画竜点晴の眼を入れた人と言えるのではないでしょうか?
他にも、茶の湯に一大改革をもたらしたそうで、
書院台子の茶→草庵小座敷の茶(わび茶)
唐物(舶載名物茶器)→国焼(国産の侘び道具)
とかがあるみたいです。
四畳半の草庵の茶を提唱し、竹の茶杓を考案、茶の湯から賭博と酒盛りを追放し、
亭主と客との精神的なつながりを中心に「一座建立」を図るのが茶事の主眼とするなど、
現在に脈々と受け継がれる茶道の基礎を築いた人と言えそうです。
NO 210 「茶人伝7」足利義政ってこんな人
足利義政
1436年1月20日~1490年1月27日
室町幕府第八代将軍・足利義政は、文化面では功績を残しているそうです。
庭師の善阿弥や狩野派の絵師狩野正信、土佐派の土佐光信、宗湛、
能楽者の音阿弥、横川景三らを召抱え、東山の地に東山殿を築いたようです、
銀閣に代表されるわび・さびに重きをおいた、この「東山文化」では、
初花、九十九髪茄子など現在に残る茶器も作られたそうです。
茶道は、村田珠光に師事したようです。
『山上宗二記』珠光一紙目録によると、
珠光は、義政に茶道指南として仕えた、ともされるそうですが、
年代の矛盾から、現在の茶道史研究では基本的に否定されているみたいです。
『山上宗二記』に、
「夫れ、茶湯の起こりは、
普光院殿(足利義教)・鹿苑院(足利義満)の御代より、
唐物・絵讃等、歴々集まり畢んぬ。
其の頃御同朋衆は善阿弥・毎阿弥なり。」
とあるそうです。
同じく『山上宗二記』に、
従来の遊興にあきてきた義政が、能阿弥に対し、
「何カ珍敷御遊在ヘキ」
と尋ねたところ、
「コノコロ南都称名寺ニ珠光ト申モノ御座候、
此道ニ志深ク、三十歳已来茶湯ニ身抛」
と答えたため、
市井の茶の湯の名人・村田珠光を召し寄せ、
師匠と定めて一生これを楽しんだとあるようです。
NO 209 「茶人伝6」一休宗純ってこんな人
■一休宗純の略歴
後小松天皇の子で、幼少に安国寺、のちに天龍寺、建仁寺、禅興庵と、
転々としながら修行に励むようです。
禅興庵は、当時、峻烈な禅風で知られたそうで、
華叟宗曇の弟子となり、辛苦の末、
その法を嗣(つ)ぐようです。
この時、「洞山三頓の棒」という公案に対し、
「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答えたことから、華叟より一休の道号を授かったのだとか。
悟りを得たのち、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となり、
塔頭の真珠庵を、開祖として創建するようです。
また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、
後に「一休寺」とも呼ばれるようになったのだとか。
以後、天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたみたいです。
臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっているそうです。
以下、略歴です。
1394年 京都生まれ。
1400年(6歳) 京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒、周建と名付けられる。
1405-6年(13歳) 漢詩『長門春草』著。
1407-8年(15歳) 漢詩『春衣宿花』著。
1410年(17歳) 謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改める。
1414年 謙翁宗為の死去。一休の自殺未遂。
1415年 京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子になる。
華叟より一休の道号を授かる。
1420年 ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。
1428年 称光天皇崩御。一休が後花園天皇を推挙。
1474年 後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられる。
1481年(88歳) 酬恩庵においてマラリアにより死去。
NO 208 「茶人伝5」能阿弥ってこんな人
能阿弥(本名:中尾真能、号:春鴎斎)は、
水墨画家、茶人、連歌師、鑑定家、表具師で、
足利義教(六代将軍)から同朋衆(どうぼうしゅう)として仕えたとか。
能阿弥の父親も、毎阿弥と称して将軍に仕えていたようです。
■同朋衆(どうぼうしゅう)について
同朋衆というのは、
室町時代以降、将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のことだそうで、
1866年まで続いたとか。
元々は、鎌倉時代末期から南北朝にかけて武将に同行した時衆(従軍僧)で、
目的は武将の最後にあたってその菩提を弔うためと、
負傷したものを治療することだったようです。
次第に、平時において、芸能を活かして武士の慰めとするようになっていき、
同時に側近、取次ぎ人としての役目も果たすようになり、
室町初期には、幕府の職制に組み込まれていくようです。
制度としては、細川頼之が執事となって六人の法師を抱えて、
足利義満に仕えさせたことに始まるのだとか。
鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派の日本仏教:時宗
時衆(じしゅ)における遊行は、室町幕府から関所自由通過を許され、
時衆に加わる手続きも簡単だったため、
芸能を生活の手段とする人々が時衆集団に加わるようになったそうです。
■能阿弥の成果
元は越前朝倉氏の家臣だった中尾真能(さねよし)は、
足利義教・義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号したそうです。
能阿弥の仕事は唐物の鑑定や管理、東山御物の制定を行い、
特に水墨画に優れ、阿弥派の開祖とされ、鶴図を描き義政に絶賛されたといわれるとか。
「花鳥図屏風」「白衣観音図」など、
牧谿(日本の水墨画史上、最も高く評価されてきた画家の一人)の図様を、
そのまま取り込んだ作品が残っているそうです。
茶道では「書院飾りの完成」「台子飾りの方式の制定」など、
小笠原流の礼法を参酌して今日に伝えられているような茶の点て方を考案したとか。
『山上宗二記(やまのうえのそうじき)』では「同朋中の名人」と記されているみたいです。
NO 207 「茶人伝4」佐々木道誉ってこんな人
佐々木道誉(ささき どうよ)は、佐々木佐渡判官入道や、京極高氏(きょうごくたかうじ)とも呼ばれ、
茶をゲームとして楽しむ「闘茶」を広めた人とのこと。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。
1296年~1373年9月12日
鎌倉幕府創設の功臣で近江を本拠地とする佐々木氏一族の京極氏に生まれたことから、
京極道誉(きょうごく どうよ)または京極高氏(きょうごく たかうじ)とも呼ばれる。
ばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ婆沙羅大名として知られる。
ばさらは、身分秩序を無視して実力主義的であり、
公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥し、
奢侈(しゃし)で派手な振る舞いや、粋で華美な服装を好む美意識。
足利尊氏に南朝と和睦して後村上天皇から直義追討の綸旨を受けるよう進言。
足利政権の立役者でもある。
また、茶道の他、連歌などの文芸や立花・香道・笛・近江猿楽の保護者となったようです。
『太平記』に、
京都の勝持寺で花を生け、
香炉を飾り、花見をしながら、
出されたお茶が「本茶」か「非茶」かを飲み当てる
「闘茶」が行われた
とあるそうです。
当時の庶民の間でも、茶を点てて、
どちらの泡が先に消えるかといった「闘茶」があるなど、
様々なルールで以降100年以上に渡り流行ったとか。
NO 204 「茶人伝3」明菴栄西ってこんな人
「抹茶」を日本に伝えた人がこの栄西だそうです。
岡山県出身の栄西は、天台宗を習いに中国へ行くのですが、
そこで流行っていた禅宗を習って帰ってきたそうです。
禅宗での座禅の合間に飲まれたのが「抹茶」で、
『吾妻鏡』に、
鎌倉幕府三代将軍の源実朝が、頭痛に悩んでいたときに、
栄西が「抹茶」を飲ませて治した
という逸話があるとのこと。
この時代の「抹茶」は、現在にも通じるレベルのものだそうで、
使用する器具、茶を点てる作法なども、
ある程度は、既にできていたようです。
「茶は養生の仙薬・延齢の妙術である」の冒頭で始まる
『喫茶養生記』も栄西の著作だそうです。
再入宋後、茶種を持ち帰り、
筑前の背振山に植えたようです。
これが「石上茶」のおこりなのだとか。
また、栂尾の明恵上人に茶種を贈ったものが
「栂尾茶」の始まりみたいです。
宇治の茶は、この栂尾から移されたものだそうです。
NO 205 老松茶器の拝見の出し方ってこんなの
北野天神として祭られた菅原道真は、
陰謀によって九州の太宰府に左遷されたそうです。
都を想い
東風吹かば 匂いおこせよ梅の花
主なしとて 春な忘れそ
と、庭の梅を懐かしむ歌を詠むのだとか。
すると、都から歌に詠まれた梅が飛来して根付いたそうです。
これが飛梅、紅梅殿なのだとか。
道真の京都の邸宅には、その梅と並んで、
桜と松とが生えていたみたいです。
梅が太宰府へと主を慕って飛んで行った後、
同じく道真の京都の邸宅に生えていた桜の木は、
道真が去り際に、梅にばかり歌を遺して、
自分には言葉をかけてくれなかったことを悲しく思い、
主との別れを悲しんで枯れてしまったのだそうです。
その報せを配所で聞いた道真は、
梅は飛び 桜は枯るる 世の中に
何とて松の つれなかるらん
という歌を詠んだようです。
すると、今度は道真に「つれない」と咎められた松が、
梅の後を追って同じく太宰府へとやってきたそうで、
これを「追い松(老松)」といい、
飛び梅(紅梅殿)・老松は、共に太宰府天満宮で、
末社の神として祀られているとか。
■初番目物 脇能 老神物「老松」
ここでは、能の演目「老松」について説明しようかと思います。
本作は、道真にまつわる奇跡を語る神能で、
簡単に説明すると、梅津某が太宰府安楽寺に参詣し、
老翁から老松と飛梅のいわれを聞き、
のち、夜ふけになって、老松の精と梅の精が現れて、
舞を舞うという話だそうです。
「紅梅殿」という小書がつくと、
通常では登場しない紅梅殿の精が出るみたいですが、
老松の詞章には、もともと紅梅殿の精が登場するような記述があるそうで、
こちらの演出の方が、本来の形に近いと考えられているとか。
では、詳細を見ていこうかと思います。
■老松の謂われ
場所は、菅原道真をまつる太宰府・安楽寺。
梅の花咲く、のどかな新春のある日のこと、
都の人・梅津某が、従者を引き連れ参詣しに来たようです。
そこに、老人と若い男がやってくるそうです。
梅津某が声をかけると、二人は、
境内の飛び梅はこの地では「紅梅殿」と呼び敬われ、
梅に続いて飛来した老松もまた、神木であると教えるみたいです。
そして老人は、この社の謂われを語るという、
「独吟(クセ)」の部分が、はじまるそうです。
この社の天神様の愛した梅と松、
梅は文学を好んで色香を増し、
松は始皇帝を雨から守った徳をもつとか。
「名高き松梅の花も千代までと・・・」
と言うと、二人は姿を消してしまったそうです。
中国では、梅は文学を好むので「好文木」といわれ、
松は秦の始皇帝の雨やどりを助けたので
「大夫」の位を授けられたという故事があるようです。
この「クセ」の部分の全文は以下のようになっているみたいです。
「げにや心なき。草木なりと申せども。かかる浮世の理をば。知るべし知るべし.
諸木の中に松梅は。ことに天神の。ご自愛にて.
紅梅殿も老松もみな末社と現じ.たまえり。
さればこの二つの木は。わが朝よりもなお。漢家に徳を現わし。
唐の帝のおん時は。国に文学さかんなれば。
花の色を増し。匂い常より勝りたり。文学すたれば匂いもなく。
その色も深からず。さてこそ文を好む。木なりけりとて梅をば。好文木とは付けられたれ。
さて松を。太夫という事は。秦の始皇の御狩の時。
天俄にかき曇り.大雨しきりに降りしかば。帝雨を.しのがんと.小松の陰に寄りたもう。
この松にわかに大木となり。
枝を垂れ葉を並べ。木の間透間をふさぎて。その雨を漏らさざりしかば。帝太夫という。
爵を贈りたまいしより松を太夫と申すなり。
かように名高き松梅の。花も千代までと。
行く末久しみ垣守。守るべし守るべしや。
神はここも同じ名の。天満つ空も紅の。
花も松ももろともに。神さびて失せにけり跡.神さびて.失せにけり。」
■老松の登場
二人が姿を消したことに驚いた梅津某は、
従者に土地の者(安楽寺門前の者)を呼ばせ、
その人から詳しく道真の事蹟や道真を慕って飛んできた梅、
後を追ってきた松の話を聞くそうです。
先刻の二人が神の化身だと確信した梅津某は、
更なる奇跡を見ようと、その夜は、松の木陰で休むみたいです。
すると、老松の神霊(松の精と梅の精)が、紅梅殿に呼びかけながら登場し、
二柱の神はこの客人をもてなそうと、歌をうたい、舞を舞うそうです。
ここで「仕舞(キリ)」がはじまるようです。
若々しい紅梅殿は舞の袖をひるがえし、
長寿の松は御代の春を祝福するようです。
そして、春の栄えは、行く末久しく続くのだとか。
この「キリ」の部分の全文は以下のようになっているみたいです。
「さす枝の。さす枝の。梢は若木の花の袖。
これは老木の神松の。これは老木の神松の。
千代に八千代に。さざれ石の。
巌となりて。苔のむすまで。苔のむすまで.
松竹。鶴鶴の。齢をさずくるこの君の。
ゆくすえ守れと我が神託の。告を知らする.
松風も梅も。久しき春こそ.めでたけれ。」
NO 204 老松茶器の拭き方ってこんなの
老松棗とは、原叟が、山崎妙喜庵にある名木豊公袖摺松で好んだもので、
碁笥棗に似た身へ、蝶番付の割蓋がついているものみたいです。
単に割蓋のみのものは「一燈好」だそうです。
老松棗というと、又妙斎宗匠好や、
淡々斎宗匠好の老松蒔絵大棗などもあります。
単に割蓋のみのものは又玄斎宗匠好だそうです。
NO 203 「茶人伝2」嵯峨天皇ってこんな人
日本における茶の記述がはっきりするのは、
815年、嵯峨天皇の滋賀県唐崎への行幸だそうです。
嵯峨天皇は、唐崎への舟遊びの途中、梵釈寺に立ち寄り、
大僧都永忠から茶を献ぜられたようです。
この永忠は、約35年間、唐に留学していたそうで、
陸羽の点茶法を身に着けていたと考えられているようです。
当時の喫茶は、固形の緊圧茶「餅茶(びんちゃ)」から、
必要量だけ切りほぐして湯にいれて煮出して飲む方法だったとか。
中国文化人の陸羽著『茶経』はこの頃(760年)に著されていて、
白磁や青磁の茶碗についても書かれているようで、
日本にも既に、輸入されていることから、
当時の喫茶も、同様の茶碗を使っていたのではと推測されるようです。
琵琶湖で舟遊びをした後、平安京へ帰り、
嵯峨天皇は、京都・近江・丹波・播磨国など
関西一円に茶を栽培させ、毎年献上するよう命じていたそうです。
「季御読経(きのみどきょう)」という平安時代に行われた宮中行事の中で
「引茶」として僧侶たちに振る舞ったようです。
ただ、僧や皇室を中心に取り入れられた喫茶、
唐文化の模倣として用いられていたため、
唐の衰退・遣唐使の廃止・国風文化の興隆などで、
細々とした発展しかしなかったようです。
一般に浸透するようになるには、鎌倉時代を待つ必要があるみたいです。
2018年6月13日水曜日
NO 202 「茶人伝1」神農ってこんな人
■神農の茶
まずは、中国の人物から説明しようと思います。
唐代の茶書『茶経』には、紀元前3400年頃「神農(しんのう)」が始めた薬草が「茶」とあるそうです。
この神農、世界最古の本草書『神農本草経』に登場するのですが、
七十世代に渡って国を治めたり、体が透明だったり、毒を食べても生きていたりと変わった人だったようです。
日本では、湯島聖堂内の神農廟に祀られ、毎年11月23日に「神農祭」が行われているみたいです。
NO 201 円座ってこんなの
円座(えんざ)は、藁(わら)・菅(すげ)・藺(い)などで、
露地で腰掛ける際に使う、渦巻き形に、
まるく編んだ敷物のことだそうです。
わろうだ・わらざとも言うようです。
『延喜式』に平安期の讃岐の産物として、
菅円座が挙げられているみたいです。
『庭訓往来』にも讃岐円座と記されているそうで、
円座は平安期以来讃岐の重要な特産物だったようです。
高松市円座の地名は、
この円座の生産された地域であったことを示しているとか。
■迎付
最初に亭主は、円座を腰掛待合に置く際、
一番上の円座を裏返し、
その上に莨盆を置くようです。
裏千家の場合、正客が腰掛待合に進み、
まず、円座の上の莨盆を上座に運ぶそうです。
次に一番下の円座を詰の席に残し、
上の円座を次客の座に置き、
最後に、一番上の裏がえしになっている円座を表にかえし、
自分の席に置いて腰をかけるみたいです。
そして、連客は、円座に腰をおろし、
静かに露地の風情を眺めて迎付を待つのだとか。
正客は頃合いをはかり
「お先に」と次礼をし、
円座を壁に立てかけ、
外露地から内露地へ猿戸を心静かに入り、
蹲踞へと進むそうです。
その後、次客も次礼をして円座を壁に立てかけ、
蹲踞へと進むようです。
最後、詰は立てかけられた円座を手前に倒し、
円座を重ねて一番上を裏返し、
亭主が置いていた場所に戻し、
莨盆を載せるのだとか。
■中立
正客は、腰掛待合に進むと、
初入と同様に、莨盆と円座を定座に配り、
腰をかけるようです。
その後、初入と同様、正客から円座を壁に立てかけ、
蹲踞へと進むみたいです。
詰は、初入と同様、円座・莨盆を元のように、
戻して置くとか。
■文献
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「円座 利休形、竹の皮、讃岐円座を用てもよし」
とあるそうです。
藤原時平らが編纂した『延喜式』に
「讃岐国 菅円座」
とあるようです。
NO 200 茶歌舞伎の道具ってこんなの
七事式の一つ茶歌舞伎について説明します。
茶歌舞伎は南北朝のころに「闘茶」と呼び、京都を舞台に文化人の遊びとして流行したそうです。
当時、栄西禅師から明恵上人に受け継がれた京都栂尾一帯の茶を「本茶」としていたため、
「本茶」か他産地の「非茶」かを飲み分けることが始まりだったとのこと。
やがて、「かぶく(遊ぶ)」という風俗が歌舞伎芝居の名を生み、
「茶歌舞伎」さらに「茶香服」になり娯楽遊戯として素人の間に流行したみたいです。
闘茶の前身は「水の産地を当てるもの」「茶碗の蓋をとって茶柱の有無を賭ける単純なもの」
「酒宴の席や蒸し風呂で木にぶる下げた賞品の奪い合い」などの闘水・茶博奕・林間茶湯だったそうです。
時代とともに闘茶で使用する茶葉が、三種のものから種類が増えたものや遊技法を凝らした「闘茶」へと変遷していったみたいです。
その遊戯性により茶会(闘茶)の式次が定まっていき興なわれたのが南北朝時代で、
公家・僧侶階級中心の闘茶之会は丸1日を要する雅な茶会だったようです。
室町時代には、式(会)の簡略と煎茶・道具の普及もあり、闘茶之会は一般武士・商人にも広がり流行したそうです。
賭博の広まりとともに人心の乱れから、ついに足利幕府は建武3年(1336)、禁令を交付するまでに至り、
戦国時代に何度も公布された種々の賭博禁止令と共に公の闘茶之会・茶の遊芸は衰退していったようです。
そんな中、茶道・煎茶道が「道の精神文化」として生まれ、
江戸期に茶道の千家七事式の一つとして形式と文化を大きく変化して残ったみたいです。
煎茶が大流行した幕末から明治初期にかけ、闘茶道具一式が多く作られるようになり、
上代時期の闘茶式を模写し、茶を煎茶として、一時復活をしたそうです。
これが今日にも伝承される闘茶式になるのだとか。
七事式の茶歌舞伎は、闘茶をもとに、味覚の修練のために作られたもので、
通常は、二種の試み茶を喫し、その味を覚えておき、次に本茶三種(前の試み茶二種にもう一種加えたところ)を喫して、
その味の別をききわける式だそうです。
連客に定数はないが、通常、点茶役1名、執筆者1名、普通の客4名の計6名で行われるのだとか。
また、宇治市で行われている茶歌舞伎(茶香服)は、
ふつう玉露二種、煎茶三種を用い、それぞれの茶に花・鳥・風・月・客の名前をつけて熱湯をさし、
90秒たったもので飲み分けるのだそうです。
一回飲むごとに、自分の思った茶銘の種別札を札箱に入れ、そして一通り(5回)すめば札箱をあけて採点するのだとか。
これを5回繰り返してその合計点で順位を決めるようです。
これは、服装ややかましい礼儀作法にはまったく関係なく、誰でもが参加できる風流な品質飲み当てゲームみたいです。
採点方法は、煎じ札を出して競技者に出した茶の順番を教えて採点するそうです。
全部正解の場合は「皆点」5点とし、あと3点、2点、1点、0点となるようですが、
全部誤りの場合は0点と言わずに「チョット」と表現するのだとか。
さて、茶道の「茶歌舞伎」に必要な道具は、
茶かぶき棗、棗盆、緋大袱紗、看板板、折居、名乘札、小奉書(一帖)、硯箱などだそうです。
小西酒造に伝わる茶道資料『七事 凌雲帳 風の巻』に、
「茶かぶきは試茶(しちや)の式にて、濃茶に限り薄茶には用ひず。
茶かぶきは爐に適當にて、風爐では行ひ得ざるに非ざるも、不適當なり。」
とあるようです。
棗:宗哲製で真塗同大(どうだい)のものを五個使いますが、昔は十個を用いたみたいです。
棗盆:如心斎好は、宗哲製で長方形の真塗盆だそうです。
看板板:黒塗りの縦×横×厚さ=二尺五寸×四寸五分×四分の板で、上縁より七分下げて釘穴があるようです。
名乘札:縦×横=約三寸五分×約一寸八分の美濃紙を三等分したものだそうです。
折居:大の分一二三の三つを用いるそうです。折居一を上に順に三つを重ね、上に名乘札を載せるのだとか。
小奉書:「執筆」が記録するもので、表を上にして「ふわり」と二つに折りにし、
折り目を左にしてその上へ硯箱を載せて持出し、執筆の座の前へ置くのだそうです。
NO 199 汲出し茶碗ってこんなの
汲出しは、寄付で出される飲み物です。
湯呑み茶碗の中でも、口径よりも高さが低いものを、
「汲出し湯呑」または「汲出し茶碗(汲出し)」と言うそうで、
円筒形で縦長のものを「長湯呑」ということもあるようです。
汲出に入れるのは、白湯(さゆ)のほかに、桜湯・九重・香煎などがあるみたいですが、
ここでは、桜湯・九重・香煎の説明をしようかと思います。
桜湯(さくらゆ)は、塩漬けにしたサクラの花を湯に入れたもので、
がくを除いた花全体を梅酢と塩で漬け込むのだそうです。
神奈川県秦野市千村では江戸時代末期から生産を始め、
五分咲き程度の八重桜の晩生種関山を用いて、毎年4月中旬頃から加工しているようです。
九重(ここのえ)は、仙台の菓子屋、九重本舗玉澤が製造販売する和菓子の飲料だそうです。
九重本舗玉澤は、江戸時代に国分町に店を構え、仙台藩の御用菓子司だったようです。
九重は、細かなあられ球の粒々に、柚子・ぶどう・緑茶の風味をつけた糖衣を絡めたもので、
袋から粒々を取り出し器に入れた後にお湯または水を注ぐと、
糖衣が溶けて水に美しい色をつけ、あられが浮かびあがってくるみたいです。
香煎は、米または麦類を炒ってから粉末にしたもので、「こがし」ともいうそうです。
オオムギを原料とした麦こがし、俗に「はったい粉」と呼ばれるみたいです。
もち米でつくる小さいあられのことも香煎というようです。
大唐米(だいとうまい:イネの一品種で赤ばんだ米)を主材料に、
陳皮・サンショウ・ハトムギ・ウイキョウなどをあわせた香煎は、
江戸時代以前からあり、湯を注いで飲用していたとか。
NO 198 懐石膳ってこんなの
折敷(おしき)は、懐石家具のうち、
檜の片木(へぎ)で作った縁つきの盆のことだそうで、
食器などを載せるようです。
一般的に懐石では、
折敷に「飯椀」「汁碗」「向付」を載せ、
縁に箸ををかけて出すことになっているとか。
折敷とは折って敷くという意味みたいで、
昔は木の葉を折り敷いて食器の代用としたものを、
後世に至って檜の片木を押し曲げて角盆にして用い、
古名のまま「折敷」と呼んだものだそうです。
本来は脚のない膳のことをいうようですが、
脚の付いたものもあるそうで、
足付・足打(あしうち)と呼ばれるとか。
■折敷の形
折敷の形としては、四角の物を「平折敷/角不切」、
四隅を落とした「角切折敷/隅切折敷」、
隅切の縁を高くした「縁高折敷」、
足を付けた「足打折敷/高折敷」、
足打折敷の脚に刳形のない「傍折敷」等があるそうです。
■折敷の真・行・草
折敷は、皆朱の角切を「真」として精進に用いるようです。
黒塗りの「角不切(すみきらず)」を「行の真」、
「角切」を「行の行」として一般に用いられるとか。
「草」には、春慶・うるみ・摺漆・一閑など、
形も舟底・丸盆・半月など、糸目や鉋目や、
模様や簡単な蒔絵が施されたりと様々あるそうです。
四つ椀(よつわん)は、懐石道具のうち、
懐石家具に分類されるようです。
四つ椀は、「飯椀」「汁椀」「平椀」「壺椀」の
四つ揃えの塗椀を指すみたいです。
■両椀(飯椀/汁椀)
四つ椀うち「飯椀」「汁椀」のことを、両椀というようで
ご飯物や汁物などの椀のことだそうです。
一般的には、利休形小丸椀が用いられるとか。
利休形小丸椀は、黒漆塗が多く、
入子になっていて、飯椀が汁椀より少し大きく、
身の方を重ね、蓋をその中へ重ねると、
四つ重ねに収まる「四重椀」になっているようです。
■平椀(平皿/平盤)
四つ椀うち「平椀」は、
煮物などの椀のことだそうで、
胴に帯状の「かつら」と称される、
加飾挽きが施されているみたいです。
浅めの大振りな塗椀だとか。
■壺椀(壺皿/壺盤)
四つ椀うち「壺椀」は、
和え物などの椀のことだそうで、
平椀同様「かつら」が施されているようです。
深めの小振りな塗椀だとか。
NO 197 燗鍋と盃と盃台ってこんなの
燗鍋(かんなべ)は、茶事にだされる懐石に用いる道具で、
酒を入れて杯につぐための、
注ぎ口と持ち手のある蓋付の器のことだそうです。
燗鍋は、古田織部が、
席上において用いるようになったのが最初みたいです。
それ以前には塗物の「酒次(さけつぎ)」を用いたようです。
現在は別の容器で燗をした酒を燗鍋に移して用いるのだとか。
燗鍋は、「銚子」とか「銚子鍋(ちょうしなべ)」とも言うそうです。
銚子の「銚」は「鍋」のことだとか。
茶事に用いる酒器としては、他に「引盃」「盃台」「徳利」「石盃」などがあるそうです。
燗鍋は、古くは「さしなべ」「さすなべ」ともいったそうで、
注ぎ口のある鍋に弦(つる)をつけ、湯を沸かしたり酒を温めるのに用いたみたいです。
燗鍋の材料としては、金属製のほかに、
古染付・新渡染付・古九谷・志野・織部・古清水・御菩薩などの
塗物や陶磁器のものもあるようです。
釜師の手になるものが多く、一般的には丸形・角形・阿古陀形なのですが、
富士形・鶴首・車軸・四方・平丸など釜の形に倣い、
そこに口と手を付けたもの、
舟形・七宝形・竹節形など種々の器形を型どった珍しいものも作られているそうです。
釜のように霰・浪・雷紋・糸目・七宝などの地紋のあるものも多くあるのだとか。
燗鍋(銚子)の蓋は、共蓋で、青磁・染付・色絵・祥瑞・織部・志野などが用いられるようです。
中には、香炉の蓋、茶器の蓋、香合の蓋などを利用し、
それらの蓋に合わせて燗鍋(銚子)を作らせたものもあるようです。
やがて、柄のついた銚子ができると、
弦をつけたものは「提子(ひさげ)」と呼ばればれすようになり、
長柄の銚子が式正の器とされるようになると、
提子は銚子に酒の減った時に注ぎ加えるのに用いるものとなったそうです。
江戸後期には徳利が流行し、のちには徳利をも銚子と通称するようになるのだとか。
江戸時代の文献『貞守漫稿』に
「江戸近年式正にのみ銚子を用ひ、略には燗徳利を用ふ」
とあるそうです。
また、同じく『貞守漫稿』に
「式正にも初めの間銚子を用ひ、一順或は三献等の後は専ら徳利を用ふ」
ともあるそうです。
■盃台
盃台(さかずきだい)は、茶事にだされる懐石に用いる、
引盃を載せる台のことみたいです。
連客の数だけの引盃を積み重ねて載せ、
銚子と共に席中に持ち出すようです。
盃一枚用の場合もあるとか。
これは、亭主が持ち出す別盃や、
珍盃を載せて出すものみたいですが、
あまり使われることはなそうです。
大小複数の盃を一組にした盃を、
組盃(重ね盃)というようです。
一般的なものは三枚一組の三ツ組盃で、
盃台が付けられている場合が多いとか。
■盃台の形状
盃台は、形状は円形で高台が付き、
天目台に似ているそうですが、
高台には底があり、酸漿はごく低いことも、
全然ないこともあるとか。
高台内に底があるのは、
引盃の一番上に水を入れる向きがあり、
最後にそれを入れたり、
酒の「したみ」を入れるためだそうです。
■盃台の材質
盃と共塗か、盃が朱塗のときは、
多くは、黒塗を用いるようです。
一般的に用いられているのは、
黒塗で無地の利休形みたいです。
他に、溜塗や桑木地・黒楽・
青楽金入のものもあるそうで、
縁の形も円のほかに輪花・糸巻などもあるとか。
陶磁器の発達にともない、
やきものの盃台が現れるようになったそうです。
NO 196 飯器ってこんなの
飯器(はんき)は、共の盛蓋付の低い寸胴形の飯櫃(めしびつ)で、
杓子が添っているそうです。
飯櫃は、炊き上がった飯を移し入れておく器で、
「おひつ」「おはち」などとも言うようです。
多くは木製で、白木(サワラ材)や漆器のものがあるとか。
蓋の形状によって「つめびつ」「のせびつ(関西櫃・地櫃)」
「かぶせびつ(江戸櫃)」があるようです。
朝茶などには、竹組の飯器/金物の杓子を、
用いることもあるとか。
利休形は、黒塗りで、炉用は手なし、
風炉用は手付きみたいです。
新しいものは、木肌がなれないから、
木の香が飯に移ることがあるみたいです。
木の香を抜くには、熱湯で満たし、
これに少量の酢を加えるということを、
数回繰り返せばよいそうです。
■歪の語源
飯櫃(めしびつ)は、飯櫃(いいびつ)とも読めるのですが、
「いいびつ」から転じて
「歪(いびつ)」という語が生まれたみたいです。
昔の飯櫃は、楕円形だったそうで、
楕円形は綺麗な円形でないことから、
江戸時代以降、形や状態が歪んでいる意味として、
用いられるようになったとか。
NO 195 煮物椀ってこんなの
煮物椀(にものわん)は、
飯碗や汁碗より大きくて浅めの蓋付きの塗椀で、
懐石の主菜である煮物を盛り付けるものだそうです。
はじめは、四つ椀のうちで同色同塗同意匠のもので、
形が大きくて浅めの「平椀」だったものを、
後に趣向で種々の物が用いられるようになったようで、
椀蓋の甲・裏、椀の見込みに蒔絵を施したみたいです。
和食店などでは陶磁器製なども用いるそうです。
■懐石での煮物
一献目の酒が出された後、
一汁三菜の二菜目に当たるのが煮物碗みたいです。
煮物は、懐石のメインに相当する料理で、
しんじょ・麩・湯葉・野菜などを色取りよく盛り、
すまし汁仕立てにすることが多いのだとか。
煮物の前か後に、飯次(飯器)が出されるそうです。
飯次には、人数分の飯が入っているようで、
客は各自の飯碗にお替りの飯を付けるようです。
また、亭主から汁替えが勧められ、
味噌汁のお替りが運ばれるとか。
NO 194 焼物鉢ってこんなの
焼物鉢(やきものばち)は、
一汁三菜の三菜目にあたる、
焼物を入れる鉢だそうです。
一般的には客の数だけ焼物鉢に盛り込んで出し、
客は向付に焼物を取り、
鉢を次客に手送りするようです。
焼物鉢は、備前・信楽・織部などの、
手ごろな平鉢が多く用いられ、
「手鉢」という手の付いた鉢類も、
好んで用いられるみたいです。
■焼物鉢以前は引重(ひきじゅう)
焼物の器に陶磁器を使うようになったのは、
明治期以降ともいわれるとか。
むかしは焼物とはいわず、
引物・引菜(ひきな)と呼ばれたそうで、
引重と呼ばれる二段重ねの塗箱を用い、
上の重に香の物を、
下の重に焼物を盛り付けたようです。
古くは「香物(こうのもの)」が主菜に数えられ、
向付・煮物・香物で一汁三菜とされたものを、
余りに淋しいということで、
引重を用いて、主菜の香物を上の重に入れ、
それに添えて下の重に焼物を入れて、
出すようになったみたいです。
引重は、現在では、
あらたまった茶事のときに使われているとか。
■魚以外の焼物
焼物は主に魚の切り身を焼いたものが多いようですが、
別に魚以外のものを使って焼いてもかまわないそうです。
また、揚げ物や蒸し物でも良いとか。
例えば、貝類では、アワビやホタテ貝など、
その身自体が大きくて食べがいのあるもの、
野菜では、暑気ばらいに加賀茄子の田楽や、
長いもの付け焼など、
炉の季節だと、堀川ゴボウや筍の輪切りを、
焼いたものなども良いそうです。
精進もので、湯葉の付け焼や生麩は、
季節に関係なく使えるようです。
鳥獣類だとローストビーフや牛肉の鍬焼き(くわやき)、
合鴨をフライパンで焼いたものなど、
炉の季節には、うずらの山椒焼なども良いみたいです。
NO 193 強肴(預鉢)ってこんなの
強肴(しいざかな)は、初風炉や開炉、席披き(せきびらき)など、
祝い事の折りに良く出されるみたいです。
強肴については、流儀によって、
焼物のあとに出す肴を「預鉢」、
八寸のあとに出す肴を「強肴」とすることもあるようです。
預鉢(あずけばち)は、
茶事にだされる懐石において、
一汁三菜の後に、鉢に盛り合わせて出す料理で、
亭主は鉢を客に預けて水屋に下がり、
客はこの鉢を取り回すようです。
焼物鉢よりやや小さめの方が好ましいそうです。
懐石は、一汁三菜が基本なのですが、
もう一品との心入れから、
亭主は徳利と石盃を持ち出して、
客に酒を注いで回るみたいです。
そして、二度目の飯器を持ち出した後、
鉢と徳利を正客に預けるとか。
その間に亭主は水屋に下がって十分程で
食事を取るそうです。
(これを亭主相伴というみたいです。)
この預鉢は、炊き合わせや酢の物などを、
鉢に持って出すようです。
今日では、料理全体が贅沢になっているみたいですが、
本来懐石では、向付や煮物椀などに使った魚の、
残った部分を利用して旬の野菜と一緒に炊き合わせたり、
和え物にしたりして出すのだとか。
素材そのものを無駄にせず、
粗末に扱わずに大切にするということが、
原点でもあるそうです。
■「さかな」とは
古くは、「取肴(八寸)」とは別に、
ただ「肴(さかな)」とのみ記されることが多く、
「肴」はもともと副食を「な」といい、
「菜」「魚」「肴」の字をあてていたもので、
「さかな」は酒のための「な(おかず)」という意味なのだとか。
NO 192 箸洗(吸物椀)ってこんなの
箸洗/吸物椀(すいものわん)は、小さな蓋付きの塗椀で、
八寸の前に煮物椀と引き替えで席中に出されるものだそうです。
吸物椀は、一汁三菜を賞味し終えた後、
主客の献酬が行われるみたいですが、
その前に、今まで使った箸の先を洗い清め、口の中をすすいで、
改めるという意味の吸い物なんだそうです。
一口椀と言うように、一口位でいただける分量にするのだとか。
ただ、単なる白湯(さゆ)では物足りなく、
何かの心入れを、との思いから、
昆布の香りをうっすらと付けたり、
ごく少量の塩を入れたり、
梅干しを少量入れ、梅の香りを付けたりと工夫するみたいです。
そして、この汁の中に季節の移ろいを感じさせるような、
珍しい野草の芽や実、
木の実、またはそれらの小片や薄切りにしたものなどを、
ほんの少し浮かせるそうです。
こうすることで、吸物椀が、
次に出てくる八寸の二種類の肴の味を引き立てるのだとか。
■吸物椀の具
吸物椀に入れる、ちょっとした具の例です。
・[篠竹(しのだけ)]:稈(かん)が細く群生するタケササ類の通称。
・[蕎麦の実]:タンパク質やビタミンB群も豊富とか。
・[零余子(むかご):植物の栄養繁殖器官のひとつ。
・[海藤花(かいとうげ):マダコの卵またはその塩蔵品。
・[ちぎり梅]:梅の実をちぎったもの。
・[梅のじん]:梅の核の部分。
・[イワナシ]:ツツジ科イワナシ属の常緑小低木。
果実は緑色から赤褐色の果皮に包まれ、ナシのような甘味がある。
・[花山椒]:山椒の雄花。なお、、サンショウの実が成るのは雌株のみ。
・[長ヒジキ]:褐藻類ホンダワラ科ホンダワラ属の海藻の1種。
・[針山葵(わさび)]:わさびは、アブラナ科ワサビ属の植物で、日本原産。
・[南京の種]:カボチャ(南瓜)の種。
・[針茗荷]:ミョウガは、ショウガ科ショウガ属の多年草。
食用となるのは、花穂部分。
・[白木耳(きくらげ)]:キクラゲ科のきのこ。
中国では古くから不老長寿の薬として珍重された。
・[針生姜]:ショウガ科の多年草。
・[蓮の実]:ハス科多年性水生植物の種。
柔らかな皮の中に白い蓮の実が入っている。
・[山独活(うど)の芽]:ウコギ科タラノキ属の多年草。
・[鱧(はも)のフエ]:ウナギ目・ハモ科に分類される魚の浮袋。
・[芽蓮根]:ハス科多年性水生植物の地下茎。
・[松の実]:マツ科マツ属の植物の種子の胚乳。
・[菊花]:食用菊。
・[タピオカ]:トウダイグサ科のキャッサバの根茎から製造したデンプン。
・[椎の実]:ブナ科クリ亜科シイ属の樹木の実。
・[葛そうめん]:葛粉を用い、そうめんのように乾燥して仕上げたもの。
・[バジルシード]:シソ科メボウキ属の多年草・バジル(バジリコ)の種。
NO 191 八寸ってこんなの
八寸(はっすん)は、ほぼ八寸角の片木(へぎ)木地の角盆で、
普通は赤杉の木地で出来ていて、角を曲げ、
縁の一方に綴目を見せているそうです。
千利休が、京都洛南の八幡宮の神器から作ったといわれるとか。
懐石で、食事の段に続き、吸物椀が出て、
客が箸洗いを終わったころ、
亭主が左手に八寸、右手に銚子を持って出るようです。
■海のものと山のもの
一般的には酒の肴二種をのせ、客に酒をすすめ、
主客の盃の応酬がおこなうみたいで、
肴の二種というのは、
海のもの(動物性の生臭もの)と、
山のもの(植物性の精進もの)を、
客の数に亭主の分を加えて盛るのだとか。
趣向で、潤塗とか蒔絵物、形も末広とか塗三宝、
足付の型変りなどや、一閑などの盆を見立てたり、
陶磁器の類を用いることもあるそうです。
江戸期には硯蓋がよく用いられていたとか。
■二種の取り合わせ
それぞれ同杉、同色、同味にならないよう、
調理法・歯触りの異なる組み合わせにするそうです。
互いに対照的でありながら、
八寸の器に盛り付けた時に、
調和がとれているのが理想みたいです。
また、かまえすぎて、
二種共珍しいものとするのは良くないようです。
一種珍味があれば、あとの一種は、
旬の軽やかなものの方が、互いを活かせるとか。
■盛り方
八寸は、流儀により盛り方が異なるようです。
表千家では、綴じ目が向こう側に来るように置き、
左手前に山のもの、右向うへ海のものを盛り、
青竹の「両細箸」を添えるそうです。
裏千家では、左手前に海のもの、
右向うへ山のものを盛り、
青竹の「中節箸」を添えるとか。
武者小路千家では、左手前に海のもの、
右向うへ山のものを盛り、
青竹の「矢筈箸」を添えるみたいです。
■掻敷について
懐石では、掻敷(かいしき)は使わないそうです。
掻敷というの、食器に敷く笹の葉や木の葉のことみたいです。
ただ、取り回しやすいように、
サヤから出した枝豆や零余子(むかご)、
銀杏・黒豆などは、一人分ずつ松葉に刺すのが、
許されているそうです。
また、残肴は許されていないようですが、
伊勢海老の殻盛りなどに限っては認められているのだとか。
NO 190 湯斗と香物鉢ってこんなの
香物鉢(こうのものばち)は、
茶事にだされる懐石において、
湯桶と一緒に最後に持ち出される、
漬物を入れた鉢をいうそうです。
必ず沢庵を用いて、他に季節の漬物を一種か二種、
取り合わせるようです。
ただ、暁(あかつき)の茶事や朝茶事では、
「何もございませんが、せめて香物(こうのもの)でも」
との心入れで、五種盛りにするみたいです。
沢庵をまず盛って、あとは、刻んだもの・
ざんぐり切ったもの・薄く切ったもの・
細長く切り揃えたものと、
形を変えて取り合わせ、
味においても、塩漬・ぬか漬・辛子漬・
醤油漬・粕漬・酢漬等、変化を持たせるそうです。
■容器について
香物鉢は、小鉢を用いることが多く、
しかも侘びた風情のものが好まれるのだとか。
また、香の物が取り易い様に、
口縁が反った端反形が多いそうです。
香物鉢の代表的なものとして、
古染付雁木鉢・御本刷毛目鉢・伊賀沓鉢・
唐津沓鉢・黒織部沓鉢・唐津片口・
黄瀬戸銅鑼鉢・三島や南蛮編笠鉢などがあるようです。
■古くは引重(ひきじゅう)
むかしは「引重」と呼ばれる二段重ねの塗箱を用い、
上の重に香の物を、
下の重に焼物を盛り付けたみたいです。
かつては「香物」が主菜にも数えられ、
向付・煮物・香物で一汁三菜ともされたものを、
余りに淋しいということで、引重を用いて、
主菜の香物を上の重に入れ、
それに添えて下の重に焼物を入れて出すようになったようです。
その後、焼物が主菜になって、
引重に替り皿鉢を用いるようになり、
香物も付け合せていたものが、
香物を湯桶を出すときに、別に鉢で持ち出すようになっていくとか。
現在でも、朝茶や極侘びの茶事では焼物が省かれ、
煮物までを主菜として、
初献のすぐ後に香物を出して客に預けることもあるそうです。
NO 189 懐石道具ってこんなの
懐石道具には、以下の種類があります。
懐石家具:折敷、両椀、煮物椀、吸物椀(箸洗)、八寸、飯器、杓子、湯桶、湯の子掬い、通盆、脇引など
懐石器物: 向付、 焼物鉢、 香物鉢、 預鉢など
酒器: 銚子、 引盃、 盃台、 徳利、 石盃など
箸: 食箸(利休箸)、 菜箸(青竹箸、白竹箸、杉箸、煤竹箸、黒文字、杉楊枝など)
NO 188 利休道歌の成り立ちってこんなの
利休百首(利休道歌)の成り立ちを説明しています。
まず『細川玄旨教訓百首』を元に、千利休が『茶之湯百首 附続茶之湯百首 利休製』とします。
裏千家の玄々斎が法護普須磨に『利休居士教諭百首歌』として100首程にまとめ『利休道歌』となります。
細川玄旨(細川幽斎)の『細川玄旨教訓百首』は、本能寺の変ごろに書かれたものです。
後に『利休教歌』を経て、武野紹鴎が『紹鴎茶湯百首』にまとめています。
『茶之湯百首 附続茶之湯百首 利休製』も、
法護普須磨に書かれる『利休居士教諭百首歌』も『利休教歌』を経ています。
NO 187 和歌と茶道の師弟関係ってこんなの
紹鷗の弟子に玄哉がいます。彼は、武野紹鷗から台子の秘事を相伝しています。その後、千利休は、辻玄哉から古流の台子点前として秘事を相伝ます。
『茶話指月集』に 「そのころ辻玄哉というも、古来の台子をしる、宗易、玄哉の所へゆきて古流をならひ、御殿においてかうまつる」とあります。
NO 186 利休と紹鷗の関係性ってこんなの
ここでは、一休宗純について説明します。
村田珠光 が参禅した大徳寺の一休は、優れた禅風と、
ある意味物好きとも取れる強い求道心(ぐどうしん)を持っていたようです。
自由奔放で、奇行が多かった一休。
一見奇抜な言動は中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者と通じるものがあり、
教義の面では禅宗の風狂の精神の表れとされるそうです。
同時に、こうした行動を通して仏教の権威や形骸化を、
批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らすものでもあったのだとか。
■一休宗純の略歴
後小松天皇の子で、幼少に安国寺、のちに天龍寺、建仁寺、禅興庵と、
転々としながら修行に励むようです。
禅興庵は、当時、峻烈な禅風で知られたそうで、
華叟宗曇の弟子となり、辛苦の末、
その法を嗣(つ)ぐようです。
この時、「洞山三頓の棒」という公案に対し、
「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」
と答えたことから、華叟より一休の道号を授かったのだとか。
悟りを得たのち、後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持となり、
塔頭の真珠庵を、開祖として創建するようです。
また、戦災にあった妙勝寺を中興し草庵・酬恩庵を結び、
後に「一休寺」とも呼ばれるようになったのだとか。
以後、天皇に親しく接せられ、民衆にも慕われたみたいです。
臨終に際し「死にとうない」と述べたと伝わっているそうです。
以下、略歴です。
1394年 京都生まれ。
1400年(6歳) 京都の安国寺の像外集鑑に入門・受戒、周建と名付けられる。
1405-6年(13歳) 漢詩『長門春草』著。
1407-8年(15歳) 漢詩『春衣宿花』著。
1410年(17歳) 謙翁宗為の弟子となり、戒名を宗純と改める。
1414年 謙翁宗為の死去。一休の自殺未遂。
1415年 京都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子になる。
華叟より一休の道号を授かる。
1420年 ある夜にカラスの鳴き声を聞いて俄かに大悟する。
1428年 称光天皇崩御。一休が後花園天皇を推挙。
1474年 後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に任ぜられる。
1481年(88歳) 酬恩庵においてマラリアにより死去。
NO 185 武野紹鷗の茶室ってこんなの
国宝の茶室には、妙喜庵の待庵、犬山の如庵、大徳寺の密庵があり、それぞれ、千利休、織田有楽斎、小堀遠州があります。
同様に武野紹鷗も茶室を作っています。
それが、大黒庵、八窓茶室(無礙庵)、昨夢軒です。
大黒庵は2002年に再建されています。
大黒庵の特徴は、圍式三畳台目と貴人口です。
八窓茶室は昭和20年に戦災で焼失し、平成元年に再建されました。
NO 184 古今伝授ってこんなの
古今伝授とは、
「筆記事項」として 清濁や句読点などを付けた読み方、語義や語釈を。「口伝」として秘説を。「切紙」として三木や三鳥などの解釈が伝えられたそうです。
このうち「切紙」について説明すると、「三木」は「御賀玉木、河菜草、蓍に削り花」のこと。
「三鳥」は「百千鳥、稲負鳥、呼子鳥」のことです。
「三木」は、それぞ三種の神器に対応します。 御賀玉木=八咫鏡、 河菜草=草薙剣、蓍に削り花=八尺瓊勾玉です。
同様に「三鳥」も 三種の神器に対応し、百千鳥=八咫鏡、 稲負鳥=草薙剣、呼子鳥=八尺瓊勾玉になります。
「三鳥」と「三木」は、男女・ 陰陽の神器で対になり、この頭の六文字「を、か、め、も、い、よ」の暗号文をアナグラムとして読み解き、
「名歌、思い詠め」
とします。
切紙の中身は、 左に素戔嗚尊、右に天照皇大神、中央に大きく陰陽の心、そのに神璽=八尺瓊勾玉、内侍所=八咫鏡、宝劔=草薙剣となります。
古今伝授を見れば、和歌は天皇家と密接に結びついてたことがわかる思います 。
NO 183 紹鷗百首ってこんなの
武野紹鴎は、1502年、大和国吉野郡に生まれたそうです。
父は信久、母は大和の豪族中坊の娘だとか。
はじめの名は仲材、通称・新五郎といったようで、武田伊豆守信光の後裔なのだとか。
父信久は紹鴎が11歳のとき、応仁の乱に際会して親族を失い、大和国の豪族中坊の庇護を受けるようです。
その後信久は、同族の三好氏の勢力下にあった泉州堺に移り、武具製造に必要な皮革を商って財をなし、併せて都市国家堺の町人として軍事面で指導的な役割を担ったようです。
紹鴎が24歳になったとき、京都四条室町上(現在金剛流宗家)に屋敷を構えさせ、財力を背景として紹鴎の栄達をはかったみたいで、29歳のとき従五位下因幡守の官位を得たそうです。
『実隆公記』には本願寺について出陣したとの記述もあるとか。
当初、和泉国に住んでいたのですが、27歳の時、若いころから志していた連歌を、当時随一の文化人であった三条西嶺隆に学び、14年間、在京するそうです。
またこの時、紹鴎は、茶の湯を藤田宗理・十四屋宗伍に学んで、頭角をあらわし、珠光の為し得なかった「わび茶」を目指して、大きくその一歩を踏み出すのだとか。
32歳で剃髪、脱俗を志向、孫の宗朝の自筆稿本『尾張雑集』に、
「大徳寺の古岳宗亘に参禅した」とあるそうです。
紹鴎は「紹鴎茄子」など六十種もの名物を所蔵する富豪である一方で、無一物の境涯を理想とし、紹鴎の「わび」は富裕と簡素の両極の間を楽しむことにあったようです。
36歳で父と師実隆を失うと、古岳和尚の法嗣大林宗套を法援し、堺に南宗寺が建立されるそうです。
大林宗套に一閑居士の号を授けてもらったようです。
(※古獄和尚は、大徳寺七十六世で、堺の南宗寺の前身となる南宗庵を開き、堺衆に膳を説いた人だそうです。)
その後、和泉国の泉南に帰り、そこに住むみたいです。
住まいが夷嶋(えびすしま)に対するので、大黒庵と名付けたのだとか。
珠光の茶法に追加して一巻を著し、茶道の中興となったようです。
武野紹鴎は、1555年10月、54歳で亡くなるようです。
遺偈に、
「曾て弥陀無碍の因を結びて 宗門更に活機輪を転ず
量りを知る茶味と禅味と 松風を吸尽す心塵れず」
とあるそうです。
墓は堺の臨江寺にあるのだとか。
■武野紹鴎の茶
武野紹鴎は、村田珠光の門下の藤田宗理・十四屋宗陳や十四屋宗悟などに茶の湯を学び、三条西嶺隆の『詠歌大概(藤原定家)』の序の講義を聴いて、歌のわびの心が茶の湯と共通することを悟ったみたいです。
(※つまり、武野紹鴎は、村田珠光のひ孫弟子になるでしょうか。)
三夕の和歌の一つ
「見渡せば花も紅葉も無かりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」
の心を見てとれるそうです。
和歌の意味は、
花や紅葉を書院台子になぞらえて、
つくづくそれを眺めきてみれば、
無一物の裏の苫屋にたどりつく。
となるようです。
紹鴎は、わび茶の心を藤原定家の歌に託して、常々愛唱していたそうです。
そして、紹鴎は、茶の湯の中に「無一物」という禅の境地を見出し、村田珠光の為し得なかった「わび茶」を目指し、座の芸術である「茶の湯」を完成させるようです。
唐物中心だった茶道具に、瀬戸・信楽など日本の物を取り入れ、
竹の蓋置・木地の曲物・土風炉を考案したとのこと。
この「わび茶」という言葉は、紹鴎が初めて使った人で、「わび」を「枯カジケテ寒カレ」と表現したそうです。
『南方録』によると、京都四条に大黒庵という四畳半の茶室を営むのですが、珠光のものとは、趣きを少し異にするものだったようです。
壁を土壁に、木格子を竹格子に替えるとともに、障子の腰板を取り払い、床框(とこがまち)を薄塗り、または白木にして、「草(そう)の座敷」と呼んだそうです。
この座敷には、台子を飾らず、袋棚を飾ったようで、床には墨蹟と花入以外を飾らなかったみたいです。
床の幅も、珠光の名物茶道具を飾る一間床(いっけんどこ)に対し、
紹鴎は、五尺床だったとか。
■紹鴎の茶道具
『山上宗二記』に
「堺武野紹鴎、名人也。名物ノ道具六十種所持ス。」
「当代千万ノ道具ハ、皆紹鴎ノ目明ヲ以テ被召出也。」
とあるそうです。
大名物の唐物茶入「紹鴎茄子(みをつくし茄手)」など、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康へと伝わるような、多くの名物を持っていたようです。
一方で、釣瓶水指や青竹の蓋置なども考案していたそうです。
これらは、「わび茶」の道具と言って良いと思われます。
『長闇堂記』に、
「つるへの水さし、めんつうの水こほし、青竹のふたおき、
紹鴎、或時、風呂あかりに、そのあかりやにて、
数寄をせられし時、初てこの作意有となん」
とあるそうです。
■武野紹鴎と千利休
千利休の師匠である武野紹鴎、
立花実山著『南方録』にその師弟関係を見ることができるようです。
紹鴎が弟子の利休・不干斎らを伴い、宗能の茶事に招かれた道すがら、道具屋に「耳付きの花入」を見かけます。
欲しいけど連れもあってその時は通り過ぎ、翌朝、使いの者に買いに行かせます。
ところが、先に利休に購入され、 利休から「花入を見つけたので茶会に来てね。」と言われ、
金槌を持って紹鴎は出かけます。
席入りし、白椿が二輪入っている片方の耳付けを欠いた花入を見て紹鴎は、利休に先を越されたことの他に
「耳付けを片方欠けばさらに良い花入になると思い、
金槌を懐中してきたが無用だったか。」
と言ったそうです。
利休と紹鴎の心が見事に通じ合っている様子を、相伴の人々も感じたようです。
ちなみに、不干斎(佐久間正勝)は、信長と父親から追放される程の茶の湯好きだったそうです。
宗能は銭谷宗訥(ぜにやそうとつ)の事で、武野紹鴎の弟子。
弟子は他に、 今井宗久 ・ 津田宗及 ・松永弾正・細川幽斎・辻玄哉・三好笑岩等がいるようです。
『喫茶指拳録』には、まだ利休が与四郎と呼ばれていたころの話があるそうです。
他の家の火事から与四郎の家が類焼、
結局、家は全焼してしまいますが、
火事見舞いに行った紹鴎が見たものは、
焼け跡の灰からやぶれた瓦などを拾い
「踏み石」にしていた光景だったとのこと。
紹鴎は、いたく感動し、将来は随一の茶人になるだろうと賞美したそうです。
■紹鴎のわび茶:『山上宗二記』より
『山上宗二記』では、「紹鴎は混じり気のない純粋な茶のありさまの時期になくなった。たとえれば吉野の桜の花盛りも夏も過ぎて、秋の名月、また紅葉の美しさにも似たものだ。」
と結んでいるそうです。
「わび茶」は冬枯れに例えられるそうです。
この『山上宗二記』では、紹鴎の茶の湯に対し、
季節は秋まで来たけれど、冬には、まだなっていない、
ということを表現したものだと思われます。
つまり「わび茶」まであと一歩のところまで来た、
と解釈できるでしょうか。
その後、紹鴎の茶湯は、千利休、 津田宗及、今井宗久に影響を与え、彼らによって「わび茶」が継承されるそうです。
特に利休が「術は紹鴎、道は珠光より」と説いたことで、
紹鴎の名声は、人々に広く知れ渡っていったようです。
紹鴎が目指した茶の湯の境地を『山上宗二記』では、
「枯れかじけ寒かれ」
としているそうです。
これは連歌師である心敬の言葉から引いたもののようです。
■紹鴎のわび茶:『わびの文』より
『紹鴎わびの文』には、
「侘びと云ふこと葉は、
故人もいろいろに歌にも詠じけれども、
ちかくは正直に慎み深く、
おごらぬさまを侘びと云ふ。」
とあるそうです。
この『紹鴎わびの文』は、紹鴎が、
少壮の34歳以前の利休に与えた、
わびの真髄についての説いたものだそうです。
利休が詠んだ和歌
茶の湯とは ただ湯を沸し 茶を点てて
飲むばかりなる 本(もと)を知るべし
の意味する本(もと)が、この「わび」で、
正直に慎み深くおごらぬ心、
落着いた精神状態を常に保つことを意味するみたいです。
また『紹鴎わびの文』に
「いつはりなき世なりけり神無月
誰がまことより時雨そめけん
と、よみけるも定家卿なればなり。
誰が誠よりとは心言葉も不及処を
さすがに定家卿に御入候。
ものごとの上にもれぬ所なり」
とあるそうです。
つまり、1年のうちの10月が「わび」に当たるとしているようです。
この10月は、旧暦の10月のことで初冬になるそうです。
「時雨そめけむ」とあるように時雨がはじまる季節なのだとか。
紅葉の秋も過ぎ、やがてすべてが枯れる冷たい冬に入ろうとする時期、
紹鴎はその季節を「侘びなれ」と表現しているみたいです。
『紹鴎わびの文』の終わりの方に、
「天下の侘の根元は天照御神にて、日国の大主にて、
金銀珠玉をち りばめ殿作り候へばとて、
誰あってしかるもの無之候に、
かやぶき黒米の御供、其外何から何までつゝしみ
ふかくおひたり給はぬ御事、世に勝れたる茶人にて御入候。」
とあるようです。
これは、天照御神を祀る伊勢神宮の、質素な祭祀の形態とその精神をもって「わび」を説明しているのだとか。
2018年6月12日火曜日
NO 182 炉と風炉の灰匙ってこんなの
灰匙には、炉用・風炉用の二種類があるとのこと。
風炉用は小ぶりで柄が長く柄に竹の皮を巻いたもの、
炉用は大ぶりで桑の木の柄がついたものを用いるようです。
また、利休形は桑柄で匙が柄に差込みになっていて、少庵好は鋲打ち、元伯好みは楽焼だそうです。
この灰匙、久須見疎安著『茶話指月集』には、
「始めは竹に土器などをさして使ってたけど、 千道安 が金属を使うようになった。
これを見た 千利休 は、最初は飯杓子のようでおかしいよと笑ったけど、 後にはこの金属製を使うようになった。」
とあるそうです。
この 千道安 、灰匙の他にも、 小座敷に突上窓(天窓)をあけたり、 四畳半座敷の床を四尺三寸に縮めたり、 客座・点前座の間に中柱を立て仕切壁を付けて火炉口をあける道安囲いを構成したり、 塗り蓋を拭いてから茶巾をおく手前を考案したり、 と、かなり斬新な考えの持ち主だったみたいです。
NO 181 初炭と後炭の歌ってこんなの
裏千家では、道具の扱い順の覚え方として以下のような歌があるようです。
ちなみに、炉の手前は、炭を継ぐ前に灰まき、 風炉は炭の後に灰を切るみたいです。
○初炭手前
「は、かん、ばし、こう、釜のふた
かん掛け、釜敷き、えっさっさー(釜を持ち上げるの意)
掃いて、(炭を)直して、灰まいて
掃いて、炭つぎ
掃いて、香たき 釜掛ける」
○後炭手前
「羽の次は、 釜のふたー
カンかけ、 釜敷き、釜上げて
掃いて、直して、灰まいて(さじ香)
掃いて、釜寄せ、灰器引く
水次持ちだし、 水を注ぎ
水次引いて、 釜掛けて
素手でフタ掛け 炭斗持って帰ります」
NO 180 箱炭斗と香溜ってこんなの
箱炭斗(はこすみとり)は、四方形の箱形で持手が付いている
水屋用の炭斗のだそうです。
利休形の箱炭斗は、桑木地・やや上広がりで、
上が八寸八分四方・下が八寸四方となっているとか。
道具炭、切炭、香溜を入れて、火箸を手前の手に添えて立て、
釜鐶をかけ、他方に板釜敷をかけて羽箒をのせて持ち出すそうです。
少々わかりにくいのですが、
山田宗偏著『茶道要録』に
「勝手の烏府は桐にて作り、漆塗て用ゆ、寸法別に記あり、
此を用る時は取手の角に鐶を掛置也、板にて作る、
釜置此具たり、炭色々を組入、上に火筋、釜置、香合、鐶、羽箒を置べし、
炭取少くして各難載時は、香合を棚、箒を栓に掛べし、
棚なき時は香合をば必ず炭斗に置、釜置をば紙を用て懐中す、
後の炭の時は、香合を杓子に載て、土鍋に入持出、其杓子の入時、香器を其座へ直す也、
都て炭斗に前後あり、口伝、
侘人は〓(上竹下斫)(とをし;篩、漉米之竹器)の内を湊紙にて張て用ゆ」
とあるみたいです。
湖月老隠著『茶式湖月抄』に
「桑炭斗 利休 大さ 上八寸八分四方 下八寸分中
高内法五寸三分 厚三分二つよし
三つほそ釘二本打 底釘長六本横七本
手高さカワの上より三寸七分上に出
柱太さ八分半に六分 手は八寸七分半に六分」
と記載されているようです。
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茶道具や香道の道具であるほか、
宗教儀式において香を用いるために、
宗教用具としても用いられるようです。
香箱は、風炉の際に、箱炭斗に仕込むみたいです。
香溜(こうだまり)も、香箱同様、
香を収納するもので、
炉の際に、箱炭斗に仕込むようです。
NO 179 炭割り火箸ってこんなの
炭を割るための火箸で、先が平たくなっているそうです。
ここでは、木炭の作り方を説明しようと思います。
①原木の切り出し
窯の寸法に切り揃える。
曲がりは鋸目を入れたり、
太い物は斧、鉈(ナタ)で原木を調整する。
②窯詰め
細い物は束にして奥の方から
隙間なく立て込みする。
木の元を上、末は下にする。
③口焚き
原木の水分を抜く作業、
白い煙が出る。
④焼火
原木に点火、蒸焼き状になる。
炭化が始まり赤熱状態。
⑤黒炭の場合
炭化が終わると密閉状態にして消火させる
完全に消火されてから窯だし。
⑥白炭の場合
炭化後、窯口を徐々に開けて空気を送り、
炭材の樹皮を燃やして白熱状態にさせる。
(これを精煉という。)
NO 178 炭手前の道具組ってこんなの2
初炭手前と後炭手前の違いを説明。
紙釜敷は動画に出てきませんが、口頭で説明しています。
紙釜敷は、主に初炭手前に用い、 炭手前を略して炭道具を荘る場合や、 香合のみを荘る時は、 わさ(折目)を掛物の方へ向けて置きます。
NO 177 炭点前の道具組ってこんなの
炭斗には、唐物と和物があり、唐物は精巧を極めたものが多いそうです。
唐物炭斗には、藤・竹などで編まれた籠、漆器類や青貝入り、金馬(きんま)などがあるようです。
和物炭斗には、籐・竹・藤蔓・蓮茎(はすくき)などで編まれた籠や、
瓢、一閑張、蒔絵、曲物、指物などがあるみたいです。
和物炭斗の籠の編み方は唐物よりざんぐりしているそうです。
また和物炭斗として「冊屑箱(さくずばこ)」
「茶撰籠(ちゃよりかご)」「散華皿(さんげざら)」
「箕(み)」「炮烙(ほうろく)」
などが用いられることもあるとか。
炭斗の種類は、
「菜籠(さいろう)」「瓢(ふくべ)」「神折敷(かみおしき)」
「炭台(すみだい)」「箱(はこ)」などがあるとのこと。
炭台は、口切・席披き・台子に使用され、
神折敷・唐物籠は真の位の炭斗とされるとか。
風炉・炉用の区別は元禄時代以降なんだそうです。
炭手前の手前は、点前ではなく、手前と書きます。
NO 176 菊炭ってこんなの
茶の湯用の炭は、椚(くぬぎ)の樹を材料とした「黒炭」で、
着火性が良く、火がつけば微かな香りが漂い、
樹皮が密着し、しまりがあり、炭の断面が真円のように丸く、
切り口が菊の花のように均一に割れ目があるのが理想的だそうです。
「菊炭」などと呼ぶこともあり、「池田炭」や「桜炭」などが用いられるようです。
炭の名称や寸法などは流儀により異なるようですが、
「胴炭(どうずみ)」「丸毬打(まるぎっちょう)」「割毬打(わりぎっちょう)」
「管炭(くだずみ)」「割管炭(わりくだずみ)」「点炭/添炭(てんずみ)」
「枝炭(えだずみ)」「輪炭(わずみ)/車炭(くるまずみ)」などがあるみたいです。
2018年6月9日土曜日
NO 175 雪月花札ってこんなの
雪月花札(せつげつかふだ)は、裏面に「雪」「月」「花」と
「一」~「七」までの漢数字の書かれた計10枚が組となった札で、 表面には松の絵が描かれたものだそうです。
札は、媒竹などでできた、大きさは約2.7cm×1.2cm程度の長方形型のもので、
裏面が平らに削られているようです。
裏千家の場合、七事式の「員茶之式」
「茶カブキ之式」「花寄之式」「雪月花之式」で用いるそうです。
■雪月花之式
ここでは、雪月花之式について簡単に説明しようかと思います。
雪月花之式は、裏千家十一代家元玄々斎が、
七事式の追加として「仙遊之式」とともに考案したものだそうです。
人数が5人以上を想定し、花月之式に基準をおいた式みたいです。
数字の札は7枚あるため、最大10人まで催すことができるのだとか。
中折据に入った「雪」「月」「花」の札を使うところから、
雪月花之式という名がついた式のようです。
札の意味は、
「雪」の札をとった人が菓子をいただく。
「月」の札をとった人が茶をいただく。
「花」の札をとった人が薄茶を点てる。
だそうです。
また、雪月花札は、役を決めるときに用いても良いようで、
中折据に雪月花の札と客人数分の数字の札を入れて取り回し、
「花」が亭主、「雪」が正客、「月」が次客、「数字」が連客とするみたいです。
点てる服数に決まりはないそうですが、
通常は、「雪」「月」「花」の札をすべてとった人が出ると、
正客などの判断で、式は終了とするようです。
折据を取り回して役を決めるのは、花月之式と同じだそうですが、
莨盆と菓子が出るところから、くつろいだ雰囲気が楽しめるのだとか。
八畳で行う場合は、繰り上げ、席替わりがなく、
最後に亭主と正客のみ、元の座に戻るようです。
十二畳半の場合は、八畳の外側を通い畳として使い、
花月之式のように、座の繰り上げ、席替わりをするそうです。
NO 174 十種香札ってこんなの2
■十種香札を使用する七事式
表千家の場合は、少なくとも七事式の「数茶」と「一二三」で使用するようです。
裏千家の場合は、以下の表で一覧にしてみました。
七事式 道具 備考
<一二三之式>
道具:長盆・札箱・小折据・掛物・花入・通常の点前道具・花月札(月・花・一・二・三)
備考:修証即不無染汚不得。5人で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。
<法麿之式>
道具:長盆・札箱・小折据・掛物・花入・花台セット・通常の点前道具・炭手前道具・花月札(月・花・一・二・三)
備考:一二三之式を基に十二代又みょう斎が考案した。 5人で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。
<員茶之式>
道具:大折据・掛物・花入・干菓子器・莨盆セット・通常の点前道具。役を決めるときのみ中折据・雪月花札
備考:老倒疎慵無日 閑眠高臥対青山。7人以上で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。一回行うことを「一扁という」。
<花寄之式>
道具:大折据・掛物・花入・花台セットなど。役を決めるときのみ中折据・雪月花札。
備考:7人以上で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。十一代玄々斎が復興した形式のもの。今日庵では、利休忌・宗旦忌・精中忌・円能忌・無限忌に手向けとして参列者の代表で行う。
NO 173 水指の蓋ってこんなの
水指の蓋には、共蓋(替蓋)以外に、
別の用途で使用されていたものを水指に転用したものに、
漆塗りの塗蓋つくって使用する場合もあるみたいです。
この塗蓋、天皇から頂いた青磁水指の蓋が、
応仁の乱の混乱で割れてしまった為、
足利将軍が塗りの蓋で代用したのが始まりだとか。
かざり物をする場合に塗蓋を使うのは、
「掛物の風袋の先の[露]、
花の[露]、
茶杓のかい先の[露]で三露。
水指は水で濡らして使用するから、
共蓋にすると[露]が入って四露になる。
これはよろしくない。」
ということから来ているようです。
偶数は陰数として忌み嫌われていたみたいで、
さらに「4」は「死」に繋がり、
確かにあまりよさそうではないように思います。
普通、三露は
「席入り前・中立ち前・退出前の三度にわたって露地にまく打ち水」
のことだそうです。
NO 172 香炭ってこんなの
動画の香炭は、松榮堂のみやこ炭です。
聞香をする場合、他に以下のものが必要です。
香炉:聞香炉、火取り香炉
七つ道具:銀葉挟、きょうじ、香匙、鶯、羽箒、こじ、灰押
盆・箱など:四方盆、乱箱、志野袋、長盆、重香合、総包
そのほか:地敷、香盤、銀葉、名乗紙、香包
NO 171 「茶道」香十徳ってこんなの
香十徳
感格鬼神[感は鬼神に格(いた)る]感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる
清淨心身[心身を清浄にす]心身を清く浄化する
能除汚穢[よく汚穢(おわい)を除く]穢(けが)れをとりのぞく
能覺睡眠[よく睡眠を覚ます]眠気を覚ます
静中成友[静中に友と成る]孤独感を拭う
塵裏偸閑[塵裏(じんり)に閑(ひま)をぬすむ]忙しいときも和ませる
多而不厭[多くして厭(いと)わず]多くあっても邪魔にならない
寡而為足[少なくて足れりと為す]少なくても十分香りを放つ
久蔵不朽[久しく蔵(たくわ)えて朽ちず]長い間保存しても朽ちない
常用無障[常に用いて障(さわり)無し]常用しても無害
NO 170 「茶道」香木ってこんなの
香(こう)というと、本来は「伽羅」「沈香」「白檀」などの天然香木の香りを指すそうです。
そこから「線香」「焼香」「抹香」「塗香」などの香り、またこれらの総称として用いられるみたいです。
仏教では、香を焚くと不浄を払い心識を清浄にするそうで、
仏前で香を焚き、花や灯明とともに仏前に供するようです。
ここから「香華を手向ける」という言葉があるとか。
茶道では、炭点前などで使用するほか、七事式の且座之式のように、
「香りを聞く」こともあるようです。
風炉の場合は香木、炉の場合は練香を使用するみたいです。
ここでは「香の歴史」「香道」「香道で使う道具」「且座之式」の順に
説明していこうと思います。
■香の歴史
香の歴史はかなり古く、紀元前3000年前のメソポタミア文明のころまで遡るそうです。
種類も多く、白檀、丁香などの「樹木の皮・葉・根などの粉末」や、
乳香、安息香などの「芳香のある樹脂」、
麝香、竜涎香などの「動物性のもの」があるそうで、
ふつう「香木(明香)」と「練香(煉香・合香)」とに分けられるみたいです。
また、使用方法の違いで、焚いて使用する香「焼香」と、
焚かずに体に塗る香「塗香」に分けられるようです。
日本書紀によると、香木は595年に淡路島に漂着したそうです。
その後、宗教、主として仏教の儀礼で香木が焚かれるようです。
平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、
薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われたのだとか。
室町時代の東山文化の頃、茶道や華道が大成するのとほぼ同時期に、
香道の作法も整い、現在の形に近いものになったそうです。
また、香を茶道にも取り入れ、書院の床の正面に香炉を飾って、
香をたくようになったみたいです。
当時、香合は香炉の脇役だったとのこと。
この頃の香合の素材は、金器・銀器・漆器・木彫・古代蒔絵などが好まれたそうです。
桃山時代になり、陶磁器製の香合が使用され始めるそうです。
利休が楽焼の香合を作らせたのが焼物香合のはじまりなんだとか。
やがて、織部焼・野焼・瀬戸焼・備前焼・唐津焼などの国焼物の香合がでてくるみたいです。
江戸時代初期になると、外国製品尊重の思想から、
中国の古染付・祥瑞・青磁・交趾焼等の形物香合が主流となるようです。
2018年6月6日水曜日
NO 169 帛紗を腰につけるってこんなの
帛紗は、点前の場合、亭主が茶器や茶杓を拭くのに用いる、
方形の布だそうです。
八つ折にして懐中し、茶席に入る前に腰に着けるようです。
大きさは八寸八分×九寸三分(曲尺)が利休形とされるとか。
仕立て方は、三方縫いで、縫い目のない折りめの一辺を「わさ」というそうです。
帛紗の色は、表千家は、男性は紫、女性は朱(緋)、
裏千家は、男性は紫、女性は赤、
武者小路千家は、男性は紫、女性は朱、
をそれぞれ用いるそうです。
■帛紗の扱い
帛紗の扱いは、流派により異なるみたいで、
三千家のたたみ方一つみても、
表千家は、縫い目のない「わさ」を「左」にして、
人差し指と親指で帛紗の上の両角を持って広げるのに対し、
裏千家・武者小路千家は、縫い目のない「わさ」を「右」にして、
人差し指と親指で帛紗の上の両角を持って広げる、
といった具合に、差があるようです。
■使い帛紗と出帛紗(出し帛紗)
帛紗には、使い帛紗と出帛紗があるようで、
使い帛紗は、点前のときに、茶器や茶杓を拭き清め、
釜の蓋などの熱いものを取り扱う時に使い、
出帛紗は濃茶のとき茶碗に添えて出す帛紗だそうです。
裏千家では出帛紗には、
主に古帛紗(寸法が5寸2分×5寸で出帛紗より小さい)を使うようです。
用いる裂地は、使い帛紗の場合、主に塩瀬(畝のある羽二重)だそうで、
出帛紗の場合は、名物裂などみたいです。
■帛紗の寸法
帛紗の寸法は、千利休の妻・宗恩の作意によるものだそうです。
『逢源斎書』に
「ふくさきぬの事、
休、被成候も、ちいさく角をこし二つけ申候、
小田原陣二休御越之時、そうおん、ふくさきぬ大キぬい候て、
薬つゝミニと御申候て被進候、
休、御らん候て、此かつかう一段よく候、
これよりも此様二ふくさきぬハいたし候へと御申候、
ふくさ物と申事あしく候、
ふくさきぬよく候 大キサ十七め、十九め尤二候」
とあるようです。
『不白斎聞書』に
「寸法は畳の目十九ト貮拾壹目也、
此寸法は利休妻宗音より、利休戦場江御供之時、
服紗に薬を包被贈、此ふくさ寸法能候、
今日より是を可用とて、此寸法に極候也」
とあるみたいです。
また、三千家申合せで帛紗の寸法を定めたようです。
木津松斎の『一啜斎の聞書』に
「一 色は紅・黄・紫三色なり。
近年一啜斎にて、栗かわ茶出来申候。
紅は十五歳巳下と、古稀以上の人用ゆるなり。
寸法ハ九寸五分ニ八寸五分なり。
是ハ真伯時代ニ、三家共申合、此寸法ニ極め、
其時より一文字屋三右衛門方ニ而申付る。
則ふくさ上つつみの紙の書付ハ、如心斎筆跡なり。
右寸法相極候より前ハ、少し大きく而、
とくときまりし事も無之由に御座候。
濃茶之節、茶碗江ふくさを添而出し候事ハ、
茶碗あつき斗ニあらず。
本焼の茶碗をおもんじての事なり。
依而楽茶碗ハ草なるもの故に、
ふくさハ添不申候。楽ハわびもの故、草なり。」
とあるそうです。
NO 169 帛紗を腰につけるってこんなの
帛紗は、点前の場合、亭主が茶器や茶杓を拭くのに用いる、
方形の布だそうです。
八つ折にして懐中し、茶席に入る前に腰に着けるようです。
大きさは八寸八分×九寸三分(曲尺)が利休形とされるとか。
仕立て方は、三方縫いで、縫い目のない折りめの一辺を「わさ」というそうです。
帛紗の色は、表千家は、男性は紫、女性は朱(緋)、
裏千家は、男性は紫、女性は赤、
武者小路千家は、男性は紫、女性は朱、
をそれぞれ用いるそうです。
■帛紗の扱い
帛紗の扱いは、流派により異なるみたいで、
三千家のたたみ方一つみても、
表千家は、縫い目のない「わさ」を「左」にして、
人差し指と親指で帛紗の上の両角を持って広げるのに対し、
裏千家・武者小路千家は、縫い目のない「わさ」を「右」にして、
人差し指と親指で帛紗の上の両角を持って広げる、
といった具合に、差があるようです。
■使い帛紗と出帛紗(出し帛紗)
帛紗には、使い帛紗と出帛紗があるようで、
使い帛紗は、点前のときに、茶器や茶杓を拭き清め、
釜の蓋などの熱いものを取り扱う時に使い、
出帛紗は濃茶のとき茶碗に添えて出す帛紗だそうです。
裏千家では出帛紗には、
主に古帛紗(寸法が5寸2分×5寸で出帛紗より小さい)を使うようです。
用いる裂地は、使い帛紗の場合、主に塩瀬(畝のある羽二重)だそうで、
出帛紗の場合は、名物裂などみたいです。
■帛紗の寸法
帛紗の寸法は、千利休の妻・宗恩の作意によるものだそうです。
『逢源斎書』に
「ふくさきぬの事、
休、被成候も、ちいさく角をこし二つけ申候、
小田原陣二休御越之時、そうおん、ふくさきぬ大キぬい候て、
薬つゝミニと御申候て被進候、
休、御らん候て、此かつかう一段よく候、
これよりも此様二ふくさきぬハいたし候へと御申候、
ふくさ物と申事あしく候、
ふくさきぬよく候 大キサ十七め、十九め尤二候」
とあるようです。
『不白斎聞書』に
「寸法は畳の目十九ト貮拾壹目也、
此寸法は利休妻宗音より、利休戦場江御供之時、
服紗に薬を包被贈、此ふくさ寸法能候、
今日より是を可用とて、此寸法に極候也」
とあるみたいです。
また、三千家申合せで帛紗の寸法を定めたようです。
木津松斎の『一啜斎の聞書』に
「一 色は紅・黄・紫三色なり。
近年一啜斎にて、栗かわ茶出来申候。
紅は十五歳巳下と、古稀以上の人用ゆるなり。
寸法ハ九寸五分ニ八寸五分なり。
是ハ真伯時代ニ、三家共申合、此寸法ニ極め、
其時より一文字屋三右衛門方ニ而申付る。
則ふくさ上つつみの紙の書付ハ、如心斎筆跡なり。
右寸法相極候より前ハ、少し大きく而、
とくときまりし事も無之由に御座候。
濃茶之節、茶碗江ふくさを添而出し候事ハ、
茶碗あつき斗ニあらず。
本焼の茶碗をおもんじての事なり。
依而楽茶碗ハ草なるもの故に、
ふくさハ添不申候。楽ハわびもの故、草なり。」
とあるそうです。
NO 168 正しい帛紗のたたみ方ってこんなの
絹織物は大きく二つに分かれるそうです。
「先練織物(練織物)」:生糸を精練・染色して製織する
「後練織物(後練織物)」:生糸を使って製織してから精錬・染色する。
裂地をさらに細かく分けると、以下のようなものがあるみたいです。
御召:平織りの先練織物で、縮緬の一種。徳川家斉が好んだところから「御召」の名がある。
紬(つむぎ):紬糸で織られた先練織物。
縮緬(ちりめん):平織りにして作った後練織物。
羽二重:経糸、緯糸に生糸を用いて平織りにした後練織物。
塩瀬(塩瀬羽二重):経緯ともに生糸を使用した重めの後練織物。畝(うね)のある羽二重(はぶたえ)の一種。
あしぎぬ:古代日本に存在した絹織物。
黄八丈:八丈島に伝わる草木染めの絹織物。
桐生織:群馬県桐生市において特産とされる絹織物。その起源は奈良時代まで遡る。
西陣織:京都の先染め織物の総称。
シフォン:織物の一種。薄く柔らかい織物、またはそれを使った衣類の装飾。
シャンタン:山東絹。縦が普通の絹糸、横が絹の玉糸で織られた先練りの平織物。
紗:捩織(もじりおり)で織られた、薄く透き通る絹織物。
ジョーゼット:非常に薄く、軽く、緩やかに編まれたちりめんの織物。
緞子:繻子織地に繻子織の裏組織で模様を織り出した織物。
博多織:博多地区で特産とされる絹織物。
ブロード:ポプリン。羊毛でできた目の詰んだ織布で綿織物・毛織物。
ベルベット:天鵞絨。平織か綾織の経糸にパイルを織り出したパイル織物の一種。
本しゅす:絹・ナイロン・ポリウレタン・アセテート・ポリエステルなどで作ったしゅす織りの織物。
羅(ら):絡み織を用いた、目の粗い絹織物。
絽(ろ):捩織(もじりおり)で織られる薄く透き通った絹織物。
綸子(りんず):繻子織地に繻子織の裏組織で模様を織り出した絹織物。
NO 167 四君子水次で水を注ぐってこんなの
日本でいう水次、中国では執壺、韓国では注子というのが一般的なんだそうです。
水や酒などを注ぐための注器は、中国では新石器時代に陶製のものの初現があって、
やがて青銅でも作られるとか。
六朝時代以降、仏教をはじめとする西方文化の影響のなかで様々に姿を変え、
唐代にいたって、壺もしくは瓶形の容器に把手と細い筒状の注ぎ口のついた水次があらわれるようです。
宋代には、金属器を模した多様な水次が数多く作られるようになり、
茶器としても本格的に使用され始めるのみたいです。
日本では縄文時代に注器が現れ、古墳時代の須恵器を経て、
平安時代に中国・越窯の影響を受けたと思われる緑釉や灰釉の水次が出現するそうです。
朝鮮半島では、新石器時代に注ぎ口の付いた壺が確認でき、
三国時代には象形注器が製作され、
おもに酒などを盛る祭器として使われたと考えられているようです。
高麗時代におおきな発展を遂げた青磁、高麗青磁水次の中には、
酒に関する詩銘を持つものがあって、酒器としても使われていたみたいです。
NO 166 腰黒やかんで水を注ぐってこんなの
やかんは、漢字で書くと「薬缶」となるそうで、
唐銅・素銅・毛織・南鐐などがあるみたいです。
1587年の北野大茶の湯に際し、
千利休が初代淨益に作らせたという利休所持の腰黒薬缶が伝わり
「利休形腰黒薬缶」とされているようです。
腰黒やかんは、利休好みで、
上部は赤く、内部は白めをひいています。
NO 165 配膳棚の組み立て方ってこんなの
表千家不審庵に建つ茶室の一つ点雪堂は、
四畳茶室の祖堂と、反古張席(ほごばりのせき)・勝手・水屋からなるそうです。
ここの勝手には、折りたたみ式の「配膳棚」が備え付けられているようです。
点雪堂の勝手は、板の間と三畳敷と土間とからなっており、
一隅に右手に流し、左手に「長炉」がつくられているみたいです。
「長炉」の上部には蛭釘が三つあって、そこに鎖がつくられ、
その蛭釘をレールによって左右に移動できるようにしているとか。
これは懐石の用意をする際にとても実用的な、
他の水屋には見られない工夫なのだそうです。
長炉の右手は、すのこ張りとなっているようで、
その上部に一枚の棚がもうけられているみたいです。
北側の壁は大きく中敷居窓があけられて、
窓の右手に折りたたみ式の「配膳棚」があるそうです。
部屋の西南には明り障子が立てられて、
その外に半畳ほどの竹縁が作ってあるみたいです。
■点雪堂(祖堂)とは
表千家不審庵に建つ茶室の一つ、点雪堂は、
七代如心斎が造立し、天明の大火後、
十代吸江斎が再興した建物みたいです。
四畳茶室の祖堂と、反古張席(ほごばりのせき)・
勝手・水屋などからなっているようです。
祖堂は、利休像をまつった二畳台目の上段の利休堂、
道安囲いの四畳半(四畳半切本勝手)、
堂付風炉先床の床の間からなるそうで、
利休の年忌や特別の茶事にのみ使われるとか。
茅葺屋根の妻に掲げられた扁額は、
大徳寺の竺嶺和尚の筆だそうです。
不審庵は明治39年に火事があったようですが、
その時に焼失を免れたのが「点雪堂」みたいです。
火災の直後、この建物が、家元の応急の仮り住まいとなり、
たいへん重宝な役割を果たしたとか。
「点雪堂」は、露地口を入ってすぐ右手のはね木戸をすすむか、
あるいはまた外腰掛から中潜を経て、
さらに右手へ折れて茅門をくぐるとあるようです。
点雪堂には、反古張席という、
八代卒啄斎好の一畳台目向板入向切の茶室が附属しているそうで、
祖堂の正面から左手の方へ進むと、この席の入口へ導かれるようです。
この席の前面には庇が深く付けおろされ、
北と西の二方を袖壁で囲い、一坪ほどの広さの土間庇を構成していて、
ちょうど御室の仁和寺遼廓亭や如庵の形式と共通するものがあるとか。
■火灯口(かとうぐち)
「点雪堂」の茶道口は、火灯口だそうです。
火灯口は、主に給仕口に用いられる出入口の形式のひとつみたいで、
方立のような枠を用いず、出入口の上部を丸くして壁を塗り廻し、
塗り廻した縁を奉書紙で貼り、
水屋側に鴨居を入れて片引き襖を建てたものみたいです。
裏千家の一畳台目向板入向切の今日庵や、
武者小路千家の一畳台目半板入向切の官休庵なども火灯口だとか。
NO 164 色紙立(扇立)の組み立て方ってこんなの
色紙は、和歌・俳句・書画などを書く、方形の料紙のことだそうです。
色紙という名前は、元来は染色した紙のことを言ったようです。
詩歌などを書く料紙としては、
屏風や障子などに詩歌などを書き入れるために染色した紙を押し、
これを色紙形と呼んだことに由来するのだとか。
色紙の寸法は「大:縦×横=六寸四分×五寸六分」「小:縦×横=六寸×五寸三分」
の二種があるようで、これに準じた方形の料紙も総称して色紙と言うみたいです。
色紙として最も古いものとしては、藤原定家筆と伝える小倉色紙で、
小倉百人一首として有名なのだとか。
■小倉色紙(小倉百人一首)
鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、
藤原定家が作成した色紙で、成立当時は、
「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」と呼ばれたそうです。
後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、
「小倉百人一首」という通称が定着したとか。
高砂の 尾上の桜 咲きにけり
外山の霞 立たずもあらなむ
小倉色紙「たかさこの」は、天文24年(1555年)、武野紹鴎が茶会に用い、
初めて茶席の掛け物とされた和歌として特筆されたようです。
この幅には、千利休の消息が添い、
利休は、この幅を借用して茶会に用い、大いに面目をほどこしたのだとか。
■書画用の色紙
色紙は、古くから短冊と同様に書道作品に用いられ、
絵画作品にも多く用いられたそうです。
近現代では著名人のサインや寄せ書きにも用いられ「サイン色紙」と言うみたいです。
また色紙という語は「短冊形」に対する「色紙形」の略語としても用いられるようです。
書画用の色紙は正方形に近い形の厚紙でできていて、
金縁が施され、片面には金粉や銀粉などを散りばめられているものも多いとか。
なお、色紙は本来、金粉や銀粉などが散りばめられているほうが表面だそうですが、
書画やサインなどは、謙遜の意味であえて裏面の白いほうが用いられるといわれているようです。
NO 163 円椅の組み立て方ってこんなの
立礼(りゅうれい)は、1872年の第一回京都博覧会において、京都府参事槇村正直から
「外人も楽しめるような茶席がほしい」
と依頼された前田瑞雪が、裏千家十一代玄々斎宗室に相談して、
椅子と卓による点前を考案したものだとか。
前田瑞雪は、建仁寺正伝院の茶席を持っていたみたいです。
当時、会場には「囲い点」と「椅子点」の 席が設けられ、
数奇屋大工二代目木村清兵衛が造った台子を点茶卓に利用し、
天板に風炉 釜を据え、皆具を飾り、椅子に腰掛けて点前をしたそうです。
現在、裏千家で「点茶盤」と称されるものが、このときの点茶台を基に考案されたもので、
テーブルに、風炉釜・水指などを置き、亭主は円椅(椅子)に腰掛け点前を行い、
客は喫架(客用机)、円椅(客用椅子)を用いるみたいです。
この椅子式の点前が各流儀においても取り入れられ、
各種の立礼棚、立礼卓が造られているようです。
近年は「新型立礼棚」というのができているようです。
これは、折りたたみ式で、付属品として、
電熱器・椅子二客・天盤保護シートなどが付いているそうです。
とてもコンパクトで、天盤の奥行きが狭いため、
持ち運びや、お点前をするのにも非常に扱いやすいものみたいです。
NO 162 喫架の組み立て方ってこんなの
喫架は、杉の八分板で作られ、黒掻合塗になっているそうです。
高さは、点茶盤と同じで、遣(や)り違いの脚が付き、
下板が嵌められているみたいです。
喫客の前や、点茶盤の右横に半がかりで置かれるようです。
しつらえとしては、
点前座の方は、点茶盤を据えて、
その客付に、喫架を一脚、縦にして置き付け、
亭主が座る円椅、下座の方に半東の円椅を置くようです。
客座には、基本的に客一人に対し、
喫架一脚、円椅一脚を配しておくそうです。
点茶盤横の喫架には、茶碗や拝見物が置かれるみたいです。
例えば、初炭手前では、喫架に香合が置かれ、
半東が香合を取りに喫架へ進み、
正客に取り次ぐといった所作が行われるそうです。
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