2017年11月16日木曜日

助炭ってこんなの


助炭(じょたん)とは、席中に客がいない際、
炭火が長く持つように、
釜をかけたまま炉の上に被せておくものだそうです。

桐の枠組みに紙張りされた櫓形のものや、
陶器製で意匠のあるものがあるとか。

風炉用は、厚紙で作られた六角形のもので、
「雪洞(せつどう)」というものがあるようです。

同じ目的で作られいるのですが、
同名で、蝋燭立てに長柄をつけた、
紙や絹で覆いのある灯具の事も言うとか。
「雪洞(ぼんぼり)」とも読むようです。

「雪洞(ぼんぼり)」の名の由来は、
「ぼんぼりと灯かりが見える灯具」
というところ来ているみたいです。

また、気象庁で採用している雨量計に対して、
固形降水の捕捉率改善のため、
受水器の入り口周辺に風よけを付けるそうですが、
これも「助炭」というそうです。

非固形降水の観測にあたり、助炭を設置したまま観測しても、
観測誤差は生じないことが確認されているようです。

ちなみに、気象庁で採用している雨量計は、
・転倒ます型
・温水式転倒ます型雨量計(ヒーター付き)
・溢水式転倒ます型雨量計(ヒーター付き)
という三種類があるみたいです。

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■ぼんぼりと言えば・・・

「ぼんぼり」は「ほんのり」の語の転訛だそうで、
灯火を紙や布の火袋(ほぶくろ)で覆い、
「火影のほのかにすいて定かならぬ」
をいったみたいです。

「ぼんぼり」は、はじめ広く灯火・茶炉(さろ)などに取りつけた、
「覆い」のことだったようです。

次第に、小型の行灯(あんどん)を言うようになり、
その後、紙・布などをはった火袋を取りつけた、
手燭や燭台を呼ぶようになったのだとか。

手燭や燭台は、ろうそくを用いる灯火具で、
普通は、灯台のように裸火を灯したようですが、
その炎が風のためにゆり動かされ、
吹き消されたりするのを防ぎ、かつ失火を避けるために、
行灯のように、火袋を取りつけた「ぼんぼり」が考案されたそうです。


■上巳の節句のはじまり
古来、中国では「3月最初の巳(み)の日」に、
水辺で禊(みそぎ)を行い、
心身を清める「上巳の祓い」という風習があったようです。

それが次第に、水辺で遊び、宴を行うようになったみたいです。

書聖・王義之が蘭亭で催した曲水宴が有名だそうで、
名士が集い、水流に盃を浮かべて詩歌を詠んだのだとか。
この時、記された『蘭亭序』は、書の最高峰として知られるようです。

その後、魏の時代には「3月3日」に行われるようになり、
日本には、奈良・平安時代になってから
「3月3日の曲水宴」として遣唐使が日本に伝えたみたいです。

『日本書紀』には、
「三月上巳幸後苑曲水宴」
とあるようで、
顕宗天皇が、485年3月に、
宮廷の儀式として曲水の宴を行ったみたいです。

そして、平安時代「上巳の節句」の日に、
人々は野山に出て薬草を摘み、
その薬草で体のけがれを祓って健康と厄除けを願ったそうです。


■上巳の節句と桃の節句
3月3日に行われるひな祭りの風習は、
曲水の宴から生まれたものだそうです。

もともと人形を流して厄を祓っていたのが、
ひひな遊び(ひいな遊び)と自然に結びつき、
今の座り雛の形に変化したようです。

江戸幕府は「五節句」を制定し、
3月3日を「桃の節句」と定めると、
5月5日の「端午の節句」が男の子の節句であるのに対し、
3月3日は女の子の節句として定着して行くそうです。

明治時代になると、旧来の節句行事を廃止して、
新しい祝祭日を設けるみたいです。

節句行事は一時衰えるようですが、
長い間人々の生活に根を下ろした行事は、
簡単になくなるものではなく、やがて復活するそうです。

「上巳の節句」を「桃の節句」というのは、
上巳の節句が、桃の時期だからということ以外に、
桃は不老長寿を与える植物とされていたようで、
百歳(ももとせ)まで長生きできるよう、
桃の節句には、桃花酒を飲む風習もあったからみたいです。


■桃の節句とひな祭り
室町時代末頃から始まった3月3日のひな祭りは、
江戸時代に華麗な女の子のための行事となって行くみたいです。

1629年、京都の御所で盛大なひな祭りが行われたのをきっかけに、
幕府や大奥でもひな祭りを行うようになり、
やがて武士階級から町人へ、江戸から地方へと広まって行くようです。

江戸時代中頃になると、
女の子の誕生を祝って、初節句にひな人形を飾る風習も生まれ、
豪華なものも作られるようになっていったそうです。

日本橋十軒店や浅草茅町など、江戸市中に雛市が立ち並び、
各所で大変にぎわったみたいです。

『御触書宝暦集成』十五では、
「雛は八寸以下、雛諸道具は蒔絵は不可」
として、華美になりすぎるひな人形を戒める、
幕府のおふれまで出されたようです。

しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる、
精巧を極めた小さな雛人形が流行するそうです。

江戸時代後期には「有職雛」と呼ばれる、
宮中の雅びな装束を正確に再現したものが現れ、
さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れたみたいです。

18世紀終わり頃より囃子人形が現れ、
幕末までには官女・随身・仕丁などの添え人形が考案されたようです。

雛飾りは嫁入り道具や台所の再現、
内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、
御殿や壇飾りなど、急速にセットが増え、
スケールも大きくなっていったそうです。


■雛人形の飾り方
壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがあるようです。

かつての日本では「左」が上の位であったそうで、
人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が、
一番の上位で天皇から見ての左側(向かって右)にいるのだとか。

飾り物の「左近の桜・右近の橘」での桜は、天皇の左側になり、
これは宮中の紫宸殿の敷地に、実際に植えてある樹木の並びだそうです。

明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため、
天皇である帝は左に立ったようです。

しかし、明治の文明開化によって日本も西洋化し、
その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立ったそうです。

以降、皇室の伝統として、昭和天皇は、何時も右に立ち、
香淳皇后が左に並んだみたいです。

男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多く、
それが一般的になり、結婚式の新郎新婦もそれに倣っているとか。

社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、
男雛を向かって左に置くのを「現代式」、
右に置くのを「古式」としているそうです。

飾り方にも全国各地で色々あるようですが、
多くは以下の三種の飾り方みたいです。
・御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)
・御殿の内の一室を拝しての飾り方
・屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方
ただ、実際には、特に飾り方に決まりごとはないとか。

七段飾りは高度経済成長期以降、
八段飾りはバブル期以降に飾られたようです。

最近では部屋の大きさに合わせたり、
雛人形を出し入れしやすいように、
段数を減らしたものが主流となっているみたいです。

祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると、
結婚が遅れるという話は、昭和初期に作られた俗説だそうです。

「旧暦の場合、梅雨が間近であるため、
早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから」
とか、
「おひな様は春の飾りもの。季節の節できちんと片付ける、
などのけじめを持たずにだらしなくしていると嫁の貰い手も現れない」
というのが理由みたいです。

2017年10月14日土曜日

中次ってこんなの


動画は、中次(なかつぎ)と、その内側を見せたものです。

中次の名は、蓋と身の合わせ目(合口)が、
胴のほぼ中央にあることに由来しているそうです。

本来は内外とも全部真塗で単純な形のものだったようですが、
後には塗も溜・朱・摺漆などができたみたいで、
合ロの位置の移動や蓋の形状の変化も生まれたのだとか。

藪内竹心著『源流茶話』
「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」
とあることから、肩衝系の茶入の「挽家」の形が中次とするのが、一般的みたいです。
挽家は、中に入れる茶入の形に轆轤で挽いた木地に漆塗りした容器のことだそうです。

ただ、中次に関しては、『日葡辞書』に
「ヤロウまたはnacatcugui 碾いた茶を入れるある種の小箱」
また、
『雪間草』に
「薬籠 当世の中次なり黒塗又やろうとも云」
とそれぞれあるそうで、本来薬を入れる器である
「薬器」「薬籠」から転化したという説もあるとのこと。

中次系の薄茶器には、
「真中次(しんなかつぎ)」:円筒形の胴の中央部に合わせ目(合口)があるもの。
「面中次(めんなかつぎ)」:真中次の蓋の肩を面取りしたもの。
「茶桶(ちゃおけ)」:面中次の蓋を浅くしたもの。
「吹雪(ふぶき)」:茶桶の身の裾も面取りしたもの。
「頭切(ずんぎり)」:茶桶の蓋を立上がりがほとんどない程浅くしたもの。
「立鼓(りゅうご)」:真中次の合口の部分が細く鼓を立てたようなもの。
「丸中次(まるなかつぎ)」:上下(蓋・身)を丸くしたもの。
「甲赤(こうあか)」:丸中次の身に中次の蓋を冠せ、丈を低くしたようなもの。
などがあるそうです。

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本桑でできた中次茶器で、薄茶器の一種だそうです。

中次の分類としては「真中次(しんなかつぎ)」になるでしょうか。

仕覆・帛紗付が付いているので、
和巾点などに用いると良いかと思われます。


■和巾点
和巾点は、玄々斎による裏千家の点前の整理
(法護普須磨の小習を含む三十二条の板書き)の一環として、
禁裏への茶の献上を強く望み、
1865年6月、中院家の仲介により献上が許され、
それを記念して「和巾点」が再興したのだそうです。

元々、和巾点は、
利休 時代から唐物や棗などの由緒あるものを扱う作法として扱われていた点前が、
いつのまにかなくなったみたいです。

1866年正月19日、玄々斎は、
禁裏へ濃茶竜影と新作白竹真削り茶杓を献上し、
その献残の茶をもって
「利休大居士 の古書により」
和巾点を復興し、披露したようです。

2017年10月13日金曜日

鉄瓶ってこんなの


動画は、略盆点前などに使用する鉄瓶です。

現在の鉄瓶は、三足の釜に注口を設け肩の常張鐶付に、
弦(つる)をつけた手取釜が祖型なんだそうです。

鉄瓶で沸かしたお湯は、体に良いそうです。
これは体内にほぼ100%吸収される鉄分が溶出するためと、
鉄瓶で沸騰したお湯は100%塩素分が除去されるためみたいです。
鉄分はアルツハイマー痴呆症の予防にも有効だそうです。

鉄分が不足すると、「貧血」「倦怠感」「疲労感」「集中力低下」
「筋力低下」「口内炎」「爪の異常」など症状が出てくるそうです。

軒宗金著『茶具備討集』に
「手取、土瓶也、必有口」
とあるようです。

正田次郎左衛門著『湯釜由緒』に
「始メテ土瓶茶釜ナルモノヲ鋳造ス」
とあるみたいです。

以下に鉄瓶の価格帯ごとの説明をしようかと思います。

■一万円未満
国産と中国産があり、手作り品はないそうです。
国内産の鉄瓶は「急須兼用鉄瓶」になるようです。

鉄瓶と急須の違いは「内側の処理」で、
錆ないようにしてあるのが急須、鉄のままのものが鉄瓶だそうです。

なぜか中国で「南部鉄器」という商標登録をしたそうで、
このクラスの「南部鉄瓶」というのは中国製のようです。


■一万円未満
鋳型一つで百個くらいと、大量に生産するようです。
職人の手も少し加わるみたいです。蓋は上からかぶせるタイプのようです。
鉄瓶の取っ手は機械で作り、成形するそうで、持つと熱いそうです。
そして、重い。


■三万~五万円台
このクラスから繊細な模様がついた鉄瓶が出てくるみたいです。
内側には「金気止め」の処理が施され、表面は「黒漆」や「生漆」が塗られているそうです。
鋳型一つで四個ほどの鉄瓶を作るようです。

取っ手の造形にも手が加えられ、本格的な物になるそうです。
ただし、持つと熱いようです。


■六万~九万円
完全に手作りで鋳型一つから一個しか作らないみたいです。
取っ手(弦)は中が空洞で、持っても熱くないそうです。

この取っ手のことを特に「中空の弦」とも言うようです。
ちなみに、中が空洞ではない弦は「鋳物の弦」とか「無垢の弦」と呼ぶとか。
中空の弦には穴があいているのですが、これは虫喰いなんだそうです。

蓋は姥口(うばくち)になるみたいです。
これは、本体に蓋がはまり、でっぱりがないものだそうです。


■十万~十九万円
岩鉄で作られた鉄瓶(南部鉄器)だそうです。
ひと月に一個~三個しか作れないというもののようです。
鉄瓶本体の肉厚も薄く(2mm程度)、非常に軽くまた繊細な姿だそうです。

霰も手作業で、二千個程つけるのだとか。
これは、霰押し棒というもので丁寧に型に押して作っていくのだとか。


■二十万円以上
砂鉄で作られた鉄瓶だそうです。
砂鉄の鉄瓶は基本的に錆びないみたいです。
弦は岩鉄だなんだとか。

2017年10月11日水曜日

三ッ組仕覆ってこんなの


三ッ組仕覆(みつぐみしふく)は、茶箱に仕組む、
茶碗・棗・茶杓をそれぞれ入れる仕覆のことだそうです。

仕覆は、大徳寺木瓜・祥寿緞子・遠州緞子・紹鴎緞子
遠州元禄・利休緞子などなどいろいろあるようです。

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茶碗の仕覆は、御物袋とは違うそうです。
御物袋は、無地の縮緬(ちりめん)で出来ているのですが、
仕覆は、金襴、緞子、間道、錦、風通、繻珍、
天鵞絨、印金、莫臥爾、更紗
などになるようです。

仕覆の裂地には、他に、
名物裂と言われるものもあるようです。

名物裂は、鎌倉時代から江戸時代にかけて、主に中国から日本に伝わった織物。
名物には「大名物、名物、中興名物」があって、
この中から茶人に選択され大事に扱われてきた裂が名物裂と言うそうです。
大名物は、 足利義政 (室町時代)が、中国の名器・名画を能阿弥に選定させ東山御物としましたもの、
名物は、 千利休 ・山上宗二(桃山時代)が選んだ「茶器名物集」のもの、
中興名物は、 小堀遠州 (江戸時代)が選出したものらしいです。

名物裂の記録としては、
1595年別所吉兵衛の『名器録』、
1694年江戸時代の百科事典『万宝全書』、
1797年松平不昧の『古今名物類聚』、
1804年の『和漢錦繍一覧』とかにあって、
『万宝全書』の頃には、名物裂の名称が確立したのではないかとのこと。

他にも到来時期をベースに、
「極古渡り」(鎌倉後期~室町初期)、
「古渡り」(室町中期)、
「中渡り」(室町中期~末期)、
「後渡り」(室町末期~桃山時代)、
「近渡り」(江戸初期)、
「新渡り」(江戸中期)、
「今渡り」(江戸中期以降)
と分類する場合もあるみたいです。

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茶杓袋(ちゃしゃくぶくろ)は、
茶箱の点前(雪・月・花や色紙点前など)で、
茶杓をしまう際に使用する仕覆で、名物裂などがあるようです。

袋から茶杓を取りだした際は、
茶杓袋を結んで、茶箱内にある棗の仕覆の上に置くようです。

結び方は、上を左手で手前に折り、
右手で下からかぶせて一結びするみたいです。


2017年10月10日火曜日

茶箱 雪点前の道具組ってこんなの


動画は、「雪点前」の道具組です。

雪点前は、裏千家第11代家元の玄々斎が伊勢崎松坂の一旅舎に滞在中に、
考案したものだそうです。
花点前=春、卯の花点前=夏 、月点前=秋、雪点前=冬
と対応させた場合の「冬」にあたります。

特徴は、お盆を使わず、「掛子」を使うことで、
茶碗、棗、茶杓は、仕覆に入れるようです。
この仕覆は、三ツ組仕覆というとか。

袋にいれた茶杓(中節・象牙でも良い)は、
掛子に斜めに置くとか。

動画の道具組にはないのですが、
「建水」も必要なようです。

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■掛子とは
ここでは、掛子(かけご)の説明をします。

掛子は、茶箱などの収納をより効率よくするため、
箱の縁に掛けて、その中にはまるように作った、
平たい箱のことだそうで、点前の際に茶碗を置いて、
安定良く茶を点てるのにも用いるみたいです。

茶籠にはほとんどみかけないそうですが、
茶箱には添うものがあるようです。

最初から箱と一揃いで作られている場合が多いみたいで、
茶筅筒がつかえないよう、その部分が丸く開けてあるのだとか。

雪点前と月点前に使用するみたいです。

雪点前では、箱に掛子を掛け、袋に入れた茶杓を斜めに置き、
その上に二つ折りにした古帛紗を載せ、
さばいて畳んだ帛紗を置いて、蓋をするそうです。

月点前では、箱に掛子を掛け、古帛紗を二つ折りにして中央に入れ、
その上に香合・小羽箒を置き、左側に袋に入れた茶杓を置き、
さばいて畳んだ帛紗を置いて、蓋をするみたいです。

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■鑑賞
今回は、裏千家五代不休斎常叟好の
「木地茶箱」について説明します。

裏千家五代不休斎常叟好の木地茶箱は、
十代認得斎と十一代玄々斎が写しているそうです。

玄々斎の写しには、玄々斎筆の書付が添い、
箱蓋表に「三之内」と玄々斎が墨書しているそうです。

不休斎が好んだ茶箱に、「菓子箱新好之」とされる被蓋の菓子器を、
玄々斎は新たに追加したようです。

茶箱の下部に引き出しがあるそうで、
被蓋によって押さえる仕組みみたいです。

茶箱・菓子器共に、内部には金泥が施されているとか。

木地茶箱のサイズは、高9.4cm、径16.3cm×11.5cmだそうです。
中身は、
・唐津写茶碗(慶入作)
・古瀬戸写茶入(保全作)
・甲赤茶器(七代宗哲作)
・竹茶杓(玄々斎作)
・茶筅筒(七代宗哲作)
・染茶巾筒(保全作)
・菓子箱
みたいです。

2017年10月9日月曜日

長板の総荘ってこんなの


動画は、長板の総荘(そうかざり)です。

桶側の皆具で並べて見ました。
柄杓は差通になります。

茶道では「総飾り」ではなく「総荘」と書きます。

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■長板とは
長板は、台子の地板または上板をかたどったもので、
真塗が利休形で大小二種あって、
大きいものは風炉用、小さいものは炉用としているそうです。

それぞれの大きさは、
風炉用は長さ二尺八寸、幅一尺二寸、厚さ六分。
炉用は長さ二尺四寸、幅一尺、厚さ四分。
みたいです。

藪内竹心著『源流茶話』に以下の話があるようです。
台子は真の道具です。
長板は台子の上板より見立てられたもので、
金(かね)風炉をのせ、行の茶湯とし、
四畳半の炉にかざられます。

小板は草の道具で、風炉に用いられます。
大板・中板・小板は大中小の風炉に応じて用いられます。
茶を点てる時に、小板の右の隅に茶巾を置くのは、
台子の場合の茶巾を置く位置になるからです。

立花実山著『南方録』に
「台子の上の板を、上段の板、下を長板といふなり。」
とあるようです、

藪内竹心著『源流茶話』に
「長板ハ台子の上板より見立てられ」
とあるそうです。

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■桶側とは
桶側は、桶の側面の板のことで、
当世具足の一種「桶側胴」なんかが有名でしょうか。

桶側胴は板札(いたざね)とよばれる、
細長い長方形の鉄板を、
鋲で留め合わせて作るそうで、
その外観が桶の側面に似ている事から、
桶側胴の名が付いたようです。

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■桶側八景
八景は、瀟湘八景や西湖八景のように対象が固定されているものも多いけど、
台湾八景のように時代とともに内容が変遷するものもあるみたいです。

対象が固定されているものの場合、以下のような絵が描かれるそうです。
晴嵐 本来は春または秋の霞。青嵐と混同して強風としたり、嵐の後の凪とする例もある。
晩鐘沈む夕日と山中の寺院の鐘楼の組み合わせ。
夜雨夜中に降る雨の風景。
夕照夕日を反射した赤い水面と、同じく夕日を受けた事物の組み合わせ。
帰帆夕暮れの中を舟が一斉に港に戻る風景。
秋月秋の夜の月と、それが水面に反射する姿の組み合わせ。
落雁広い空間で飛ぶ雁の群れ。
暮雪夕方ないし夜の、雪が積もった山。

日本で八景というと広重の『江戸近郊八景』などが有名でしょうか。

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■柄杓のサイズ
現在、点前で使用されている柄杓は、以下の大きさのようです。

○風炉の柄杓
 合径:一寸七分半~一寸八分半
 柄の節上:五寸八分
 柄の節下:五分五分

○炉の柄杓
 合径:一寸九分~二寸
 柄の節上:五寸七分
 柄の節下:五寸五分

○差通の柄杓
 合径:一寸八分~一寸八分半
 柄の節上:五寸八分
 柄の節下:五寸五分

2017年10月8日日曜日

阿古陀の茶器ってこんなの


阿古陀(あこだ)は瓜の名前だそうです。

瓜の如く、丸胴の肩から裾にかけて、数条の堅筋が入っているもの。
多くは溜塗で、小さな摘みの木地蓋がついている。
始め如心斎の好みだそうです。

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■如心斎宗左
如心斎は、表千家の第七代家元だそうです。
第六代家元の覚々斎の長男として生まれ、家元制度の基礎を築き、
七事式を制定するなど、茶道人口増大の時代に対応する茶の湯を、
模索した人みたいです。

千家茶道中興の祖ともいわれ、千利休以来の千家の道具や記録類を整理したことそうです。

実弟である裏千家八代一燈宗室や、
高弟である川上不白らと共に時代に即した茶風を創り出した家元として名高いとか。

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■新たな茶風
如心斎らの「新たな茶風」というのは、
茶の湯に自由闊達な気風が吹き込まれたことだそうです。

茶室は利休・宗旦のような極小茶室から改築・拡張されていき、
茶道具もそれまでの侘びた目に立たないものから、
華やかな蒔絵の棗など、派手で目立つものになって行くそうです。

この第七代如心斎らが行った組織改革は、
後世に千家流茶道を伝える基盤整備である一方で、
単なる指導方法の変更のみならず、
小規模空間で小人数をもてなすわび茶の世界を大きく変えていくことになるようです。

第八代卒啄斎のとき天明8年(1788年)の大火により、
表裏両千家は伝来の道具のみを残して数々の茶室はすべて焼失してしまったそうですが、
翌年までに速やかに再建され、利休居士二百回忌の茶事を盛大に催したそうです。

こうした復興が可能だったのは、如心斎らによる「家元制度の整備」によるところが大きい
と考えられるのだとか。

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■表千家の名の由来
表千家は、千利休を祖とする千家の家督を継いだ千家流茶道の本家で、
宗家は京都市上京区小川通寺之内通上ルにあるそうです。

表千家を象徴する茶室不審菴(ふしんあん)の号の由来は
「不審花開今日春」の語に由来しており、財団法人不審菴が管理しているとか。

「表千家の名」は、茶室『不審庵』が通りの表にあることに由来しているそうです。

本家の表千家に対して分家の裏千家の名は、
「今日庵」が表通りの不審菴の裏にあることに由来するとか。

裏千家の宗家の住所は、表千家と隣接した京都市上京区小川寺之内上ルにあるそうです。

2017年10月7日土曜日

四滴茶入ってこんなの


今回の動画は、四滴(してき)です。

四滴とは、四つの茶器とも言われ、
油滴・水滴・弦付・手瓶の四種の
薄茶器を総称している言葉です。

四滴の扱いについて、
濃茶器に棗など(漆器)を用いた場合に
重ならないように使用します。

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四滴茶入(四つ茶器)は、水滴以外、本来、薄茶専用なのですが、
区分けとしてこの「茶入」のページに入れています。

四滴茶入は、以下の四つからなっているそうです。
・弦付(つるつき):口の上に半円形の弦があるもの
・手瓶(てがめ) :肩から胴に手がついたもの
・油滴(ゆてき) :肩に小さな注ぎ口があるもの
・水滴(すいてき):注ぎ口と手が付いているもの

替茶器(四滴茶入など)がある理由は、
利休形の黒塗棗を「濃茶」に用いた場合、
茶事の流れにおける「薄茶」では替茶器を用い、
前席の濃茶の棗と異なった姿を取り合わせるほうが好ましい、
といった背景からのようです。

他に、替茶器の役割として、
客の数が多いと、一つの茶器ではお茶の量が不足するため、その控えとして用いたり、
装飾的役割で、棚物を用いた時に終りに飾りを置いたり、
主茶器に添えて拝見に出したりするのだそうです。

仕付棚のある台目席・小間席などでは、黒塗棗などを荘ることがよくあるみたいですが、
濃茶の替茶器ではなく、薄茶用なんだそうです。
これは、佗びた席として道具組を考えた際にこのようになるようですが、
亭主の考えや嗜好によっては、派手な蒔絵の薄器を置く場合もあるのだとか。

同様に、菓子器の縁高も、蒔絵の薄器や焼き物の菓子器を使っていけないわけではないそうですが、
佗びた席と考えると、縁高の方が格調高く見えるような見えないような。

2017年10月6日金曜日

前瓦(前土器)ってこんなの


こちらの動画は、前瓦(まえがわら)です。

前瓦は、風炉の火窓からの火気を防ぐために立てる、
面を取った半円形の素焼きの土器(かわらけ)のことだそうです。

前土器は、御神酒を頂く土器を少し欠き用いたのが始まりだとか。

鉄風炉には「赤の前土器」を用い、
その他には「白または雲華焼」を用いるようです。
酷暑には二枚重ねて用いることもあるとか。

珠光時代以前には用いられていないようで、
頬当風炉のように眉のない風炉が出来てから用いられるようになり、
眉風炉には用いませんでしたが、
堺の草部屋が初めて用いてから眉風炉にも用いるようになったとか。

風炉のサイズに合せ大きさも変え、
灰形により丸みの異なるものを用いるみたいです。

風炉には底の部分に「底土器」を用いることが多くなっているそうで、
これも風炉のサイズで大きさを使い分けるとのこと。

五徳の高さを合せるための「五徳瓦」と言ったものもあるようです。


■『源流茶話』より
薮内竹心著『源流茶話』にこんな話があるそうです。
前土器には、内曇りを用います。
中暑の頃には、中土器、
暑さの厳しい時には、大土器、もしくは二枚使い、
残暑には逆土器などが使われましたが、
時により扱いが異なり、
だいたい中暑・酷暑の時は、大・中の土器が用いられます。

逆土器、二枚土器は共に土器の立て方、灰形に習いがあります。

※内曇り:内側に黒い焦げのある白い素焼きの土器のこと。


■その他の文献
『茶道筌蹄』に
「前土器 白火色、原叟手造形、白火色四品あり」
とあるそうです。

『茶湯古事談』に
「風炉の前かわらけを、利休二枚かさねて立し事あり、
又わり目を上へなして立し事も有、
是等ハ炎暑之比ゆへ火気を坐中へ出さぬ用なりし、
然るに去茶人一年利休長閑なりし元三に風炉を用し事有とて、
二月の余寒烈しきに風炉を出し、
しかも前瓦を高々とたて、火をミせさりしかは、
心有客は内々わらひしとなん」
とあるみたいです。

『茶道要録』に
「前土器之事、図あり、火を顕すまじきが為也、
火気を押ゆる故に、酷暑の節は二枚重ても立る也、
冷しき時は一枚を下て立る、
恒は一枚を以て高下見合有べし、
歳若き者に此土器上を下へして、
直なる方をみせて立させたる事有、
総じて春秋は火を顕はし、夏はかくす也」
とあるようです。

2017年10月5日木曜日

茶箱 月点前の道具組ってこんなの


月点前は、花点前=春、卯の花点前=夏 、月点前=秋、雪点前=冬、
と対応させた場合の、秋の季伝物点前だそうです。

裏千家十一代玄々斎が創案したもので、
香合も茶箱に仕組み、香をたくなど、茶箱点前中で最も美しい点前なんだとか。

玄々斎著『茶箱点前の記』に以下のような話があるそうです。
昔も今も茶道を学ぶ人たちは「茶箱」を携えて茶を飲んだ。
しかし、茶箱には点前の手順がなかった。
このまま、手順もなく、みだりに取り扱うのは良くない。

そこで、旅箪笥の習いにある茶の点て方の法に基づいて、
棚板を簡略化して四つに畳んだものを器居(きずえ)と呼び、
この上で茶道具を扱うよう定めよう。
もしくは箱の蓋やかけごの上でも、扱うと定めよう。
程良い方円の盆を用いるのもよいだろう、
などと考えたのです。

「月点前の扱いは唐物、雪点前の扱いは茶通箱、
花点前の扱いは小習事に添うべきもの」
と教え伝えていきなさい。
古老の人たちとよくよく考えて極めた私の趣意を、
ここに記しておく。


こうして「冬・秋・春」に対応した「雪・月・花」の茶箱点前ができるみたいです。
その後しばらくしてから、夏に対応する「卯の花点前」を考案するそうです。

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利休好の茶箱として、杉木地茶箱・桐木地茶箱・菊置上茶箱などが伝えられているそうです。

ここでは、利休好 菊置上茶箱について説明しようかと思います。

大小ある桐木地茶箱のうち、大きい方の桐木地茶箱を、
裏千家八代又玄斎一燈が写した菊置上茶箱は、
蓋裏に「利休写(花押)」と墨書しているそうです。
裏千家歴代が直書した茶箱として、最も初期のものの一つみたいです。

菊置上茶箱は、桐木地の長方形の箱で、
中に掛合(かけご)があるようで、
掛合には茶筅筒用の穴が開いているそうです。

茶箱のサイズは、高13.0cm、径20.0cm×13.8cmだそうです。
中身は、
・赤楽茶碗(玄々斎作)
・秋草蒔絵平棗(八代宗哲作)
・竹茶杓 銘:千代見草(玄々斎作)
・赤楽香合
・赤楽茶筅筒
・赤楽茶巾筒
・赤楽振出
みたいです。

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裏千家五代不休斎常叟好に、木地茶箱があり、
十代認得斎と十一代玄々斎が写しているそうです。

玄々斎の写しには、玄々斎筆の書付が添い、
箱蓋表に「三之内」と玄々斎が墨書しているそうです。

不休斎が好んだ茶箱に、「菓子箱新好之」とされる被蓋の菓子器を、
玄々斎は新たに追加したようです。

茶箱の下部に引き出しがあるそうで、
被蓋によって押さえる仕組みみたいです。

茶箱・菓子器共に、内部には金泥が施されているとか。

木地茶箱のサイズは、高9.4cm、径16.3cm×11.5cmだそうです。
中身は、
・唐津写茶碗(慶入作)
・古瀬戸写茶入(保全作)
・甲赤茶器(七代宗哲作)
・竹茶杓(玄々斎作)
・茶筅筒(七代宗哲作)
・染茶巾筒(保全作)
・菓子箱
みたいです。

2017年10月4日水曜日

茶箱用の茶筌ってこんなの


茶箱用の茶筅は、通常の茶筅より一回り小さく、
かわいらしいのが特徴です。

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■茶筅の「筅」の字
茶筅の字はもともと鍋などの焦げ付きを落とす道具、筅(ささら)から来ているそうで、
芸術まで高められた高山の茶筅では「筌」の字を使うことが通例だとか。

高山宗砌が 村田珠光 の依頼で開発したのが茶筅の始まりだそうで、近松茂矩著『茶湯古事談』には、
「茶筌は 武野紹鴎 ~ 利休 の頃まで蓬莱の甚四郎、 利休 の頃には高山甚左が作ってそれぞれ天下一と言われた」とか
「高山甚左の子孫の甚之丞や、玉林も茶筌作りで名を馳せた」といったようなことが載っているみたいです。

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■茶筅通し
茶筅通しには、穂先を湯に馴染ませ柔らかくして折れにくくする効果があるそうで、
最初の茶筅通しは、軽くサラサラとお湯に馴染ませるようにすれば良いみたいです。

戻ってきた茶碗に対する茶筅通しは、茶碗と茶筅を同時にすすぐため、
茶筅の穂先に付いたお茶を落とすようにして振るのだそうです。

点てる前を「茶筅湯じ」、点てた後を「茶筅濯ぎ」と呼んで区別することもあるのだとか。

茶筅を上下するのは、穂先を目前で改めて折れや汚れのないことを確かめる意味があるそうで、
予め水屋で穂先が折れていないかを確かめ、次に軽く水にくぐらせ清め茶碗に仕組んだものが、
問題ないかを、改めて確認するようです。

茶筅を茶碗の縁で軽く音を立てる動作は、
真言密教の灑水(しゃすい)の礼に由来した浄(きよ)めの意味があるのだそうです。

ちなみに、灑水(洒水)というのは、密教の儀式を行う前に道場や法具などに香水(こうずい)をかけ、
煩悩や穢れを浄めることだそうです。

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■貴人清次
なぜ、そうなのかはよくわかりませんが、
裏千家の貴人清次では、
茶筅は貴人の「清」が白竹に対して、
「次」は煤竹の数穂を用いるのだそうです。

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■茶筅の大きさ
茶筅の大きさは、通常は3寸7分(12cm弱)ほどですが、
西大寺の大茶盛(おおちゃもり)で用いられる茶筅は、
高さ1尺2寸(約36cm)もあるみたいです。

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■茶筅の紐
茶筅の紐は、からみ糸・かがり糸などと呼ばれるそうです。
通常は黒の糸を用いるようですが、
流派や趣向によって白や赤の糸を用いることがあるとか。

赤糸の茶筅の代表的なものが、
長寿の祝い事に用いられる祝茶筅みたいです。
還暦や古希では元節、喜寿や米寿では節無しとするのだとか。

2017年10月3日火曜日

釣釜用具ってこんなの


動画は、釣釜を掛ける用具のセットです。

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ここでは自在鉤について説明します。
囲炉裏道具として使われる「自在鉤」、
鍋や湯釜などを吊るし、高さを変えることで火力調整のできる優れた道具で、
五徳を使わないことで火元に障害物がなくなり、薪をくべやすくする働きもあるとか。

ただ、世界遺産白川郷や、かやぶきの里京都府美山集落の囲炉裏にはほとんど自在鉤は存在せず、
かわりに、種々の大きな五徳(金輪)が多く見られるみたいです。

「自在鉤」の構造としては、「中通し式」「スライド式」「縄掛け式」「空鉤」「その他」があり
中でも、固定された「吊り棒」と上下する「鉤棒」でスライドさせるタイプと、
折り返した縄の長さで調整するものの2種類が代表的なんだそうです。

この中で「中通し式」についてだけ説明すると、
竹・木筒・鉄・真鍮・縄などさまざまな材料で作られているようで、
飲食店の装飾としてもよく使われているのだとか。

横木は魚型などで、鍋をかけると魚の頭が下がり尻尾が上がって
魚と縦棒の摩擦でストップする仕組みだそうです。
そのため鍋を下ろさないと高さ調整ができないとか。

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釣(つる)は、茶の湯釜を炉に吊るための道具のひとつで、
釜の鐶にかけて、鎖や自在の鉤へかけるための、
把手(とって)のことみたいです。

釣は、「弦(つる)」「釜釣(かまつり)」
「釜弦(かまつる)」ともいうそうで、
釣も「つる」の他、「つり」と読む場合もあるみたいです。

馬蹄形に近い半円状で、両端が上に反って、
鉤状になっているそうで、釜の左右の鐶付に、釜鐶を通し、
それに釣をかけることにより釜を吊るようです。

鉄や真鍮製で、象嵌入り・彫文様入り・虫喰のものがあるとか。

利休形として、
・真鍮の木瓜形(もくこうがた)、
・鉄の丸釣(まるつる)、
・鉄の鎌刃形(かまはがた)
の三種があるようです。

木瓜形は雲龍釜・鶴首釜など、
丸釣は、四方釜に、
鎌刃形は小丸釜・小尻張釜・阿弥陀堂釜などに用いるみたいです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「釣 真チウ木爪は雲龍にもちゆ、
 鉄丸は四方にもちゆ、
 鉄鎌の刃は小丸、小尻張、大ぶりなるカマにもちゆ、
 千家に此三つを一箱に入て如心斎書にて利休所持とあり、
 それゆへ当流は此三品をもちゆ、
 此外に達磨堂にもちゆる真鍮丸ツルあり、
 片端にアガキあり」
とあるそうです。

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釣釜には、雲龍・車軸・鶴首といった細長い、
小さめのものを使用するそうです。

三月に釣釜にするのは、この春の風情を楽しむことと、
炉中に撒かれた灰が増える、炉の終わりゆく時期に思いを馳せる、
という意味があるみたいです。

釣釜は、広間と小間では室礼が異なるようです。
広間では天井に打たれた蛭釘に「鎖」を、
小間では竹や植物の蔓などで出来た「自在」を下げて、
その先に釜をかけるのだとか。

小間で使用される「自在」は、
秋の収穫後家族が集まって囲炉裏を囲む姿から編み出されたようです。

「自在」の上には、飾りとして木彫りの魚がついていることがあるみたいですが、
これは囲炉裏の火の卦に対して、水の卦を配置し、
火伏せの意味があったそうです。

2017年10月2日月曜日

釣釜ってこんなの


道具は、釣り釜と釣が釜を釣るためのセットです。

釣釜は、天井に打たれた蛭釘(ひるくぎ)から釜を釣り下げる使用するもので、
「雲龍」「車軸」「鶴首」といった細長い小さめのものを使うようです。

雲龍釜に関しては、井伊直弼著『閑夜茶話』に以下のような話があるそうです。
雲龍釜というの初め、東山御物の青磁水指の形より、利休が思いついて釜を作らせたものみたいです。
「絵は探幽なり」という言い伝えもあるとか。
また、雲龍が姥口のようになっているのは、少庵の考えのようで、
「煮えが良くもつように」と好まれたものみたいです。
利休が好んだのは一重口だそうです。

三月に釣釜にするのには、この春の風情を楽しむことと、
炉中に撒かれた灰が増える炉の終わりゆく時期に思いを馳せるという意味もあるのだとか。

釣釜は、広間と小間では室礼が異なり、
広間では天井に打たれた蛭釘に「鎖」を、
小間では竹や植物の蔓などで出来た「自在鉤」を下げて、
その先に釜をかけるようです。

■鎖の間
座敷の一種である「鎖の間」は、釣釜の鎖に由来しているそうです。
この「鎖の間」、古田織部や 小堀遠州らが、
小座敷と結び、さらには書院までつなぐことにより、
一日の内に座をかえて茶を楽しみ、かつ小座敷では得られない、
書院風の座敷飾りを茶会にとりいれることを可能にしたみたいです。

鎖の間について補足すると、
 1.利休が一旦取りやめた:立花実山著『南方録』
 2.織部が「式正の茶」として復活させた:『古田家譜』
 3.遠州が実際に造った:『松屋会記』
といった流れがあったみたいです。

以下、それぞれの詳細について。

立花実山著『南方録』に
鎖の間のことを、千宗易が伝え聞いて
「これ後世に侘茶湯のすたるべきもとゐなり」
といってやめさせたようです。

『古田家譜』に
秀吉が町人文化の茶を武家風にせよ
と言われたので「式正の茶」に改定した
といったことが記載されているようで、
この頃より「侘茶」から「儀礼の茶」へと変遷していったみたいです。
ちなみに『古田家譜』とは、仙台藩伊達家着座古田家の略譜のことだそうです。

松屋家の茶会記『松屋会記』に
「通口ヨリ鎖ノ間ヘ出候、并書院、亭へ出候」
とあるそうで、遠州が住んでいた伏見奉行屋敷に
「長四畳台目」を造ったことがわかるみたいです。
今は現存しないとのこと。

「長四畳台目」というのは、
 ・四畳を横に細長く並べ、
 ・その中央側面に台目構えの点前座を配し、
 ・躙口を中ほどに造ることにより、
 ・左方に床と貴人座、
 ・右方に相伴席とし一室の中に取り込む
といった形のものだったそうです。

お茶の郷博物館には「縦目楼」という「長四畳台目」があるみたいで、
伏見奉行屋敷と、遠州と親交のあった松花堂相乗が住んでいた
石清水八幡宮滝本坊を合わせたものだそうです。
毎週火曜日が休館日で茶室「縦目楼」は9:30~16:00に営業中だそうです。

2017年10月1日日曜日

透木ってこんなの


動画は、太い方、細い方、どちらも透木です。

■透木とは
透木(すきぎ)は、釜の羽根が炉壇や風炉の肩に掛かる場合に用いる、
拍子木形の木のことだそうです。
炉用の方が風炉用より少し大きいみたいです。

風炉では、夏の暑い時期、
炉では風炉にかわる前の温かくなってきた時期に、
炭火から釜を少しでも遠ざけ、通気を良くするために用いるようです。

古風の真の釜は、透木据えだったそうです。

好ものは、以下みたいです。
利休好:厚朴(ほお・こうぼく)
宗旦好:桐
竺叟宗室好:桜
円能斎宗室好:梅

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■透木の由来
透木は、敷木から転化した言葉だそうで、
風炉または炉に羽釜(はがま)を掛けるとき、
風炉または炉の縁に置く拍子木形の木片とのこと。
通風をよくするために、
風炉または炉と釜との間にすきま作るのが目的みたいです。

透木の用材は、利休形は厚い朴(ほお)、元伯形は桐のようです。

大きさは大小あるそうですが、通常サイズは、
炉用が長さ三寸九分、幅七分、厚さ四分、
風炉用が長さ三寸、巾六分五厘、厚さ三分八厘
になるみたいです。

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■透木の扱い
透木の扱いは、
まず、透木を炉壇叉は風炉の肩の左右の縁に置き、
これに釜の刃をのせるそうです。

五徳は必要がないので、とりのぞいておくとか。
炭手前は、本勝手の炭手前と変わりないようです。

釜にカンをかけて、釜敷を出し、釜をあげた後、
右手で右の炉壇の透木を取り、打ちかえして左掌にのせ、
ついで左の透木を取って、そのまま左掌の右の方の透木に重ね、
それを右手で重ねたまま持って、左手にもたせてカンの下座に置くみたいです。

釜を戻す時には、左手で透木を取り、
炉正面に向きなおり、右手で二ついっしょに打ちかえして、
右手で上のほうを炉壇の右に置き、
下の透木を打ちかえして左に置くようです。

ふたたび左ななめに釜の方に回り、
左手でカンを取り、釜にかけ、初めて上げた位置まで引き寄せ、
炉正面に向き直り、釜を炉にかければ、完了だそうです。

透木の扱いは風炉の季節にも行うようです。

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■透木釜に関して
透木の上に載せる透木釜は、
平たくて羽がついている形の釜で、
釜の羽を透木の上に乗せて釜を支えるようです。

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■透木に関する文献
稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「透木 利休形厚朴、元伯形桐、何れも炉風炉ともあり」
「ごう取手 百佗 千本松などの鐶を云ふ」
「端立 裏ごうにもちゆ、透木にかくるためなり」
「透木 庸軒このみのアラレの外イロリ透木カマ、
古作はこのみなし、原叟このみに乙御前あり」
とあるそうです。

宮崎幸麿著『茶道宝鑑』に
「透木 桐 ホウ。炉 長さ三寸九分、巾七分、厚さ四分。
風呂 長さ三寸、巾六分半、厚さ三分八リン」
とあるとか。

2017年9月30日土曜日

大津袋ってこんなの


動画は、大津袋です。

大津袋(おおつぶくろ)は、棗を濃茶器として入れる袋で、
紫や茶の縮緬のものが多いそうです。
利休の妻宗恩が、大津から京都に米を運ぶ米袋の、
美しさに感じて考案したようです。

利休は棗を濃茶器として使っていたそうですが、
仕覆の代わりに何か入れるものをと考えた時、
この大津袋がとても具合がよかったという訳のだとか。

大津袋には、風炉と炉の点前があるそうです。

同じく、棗を濃茶器として用いる場合、
「包帛紗」があるのですが、
これは、帛紗で包んで仕覆の代わりとするみたいです。

違いは、包帛紗ではその帛紗を点前に用いるのに対し、
大津袋では仕覆とほぼ同様に扱うといったことだそうです。

大津袋の仕立てとしては、
北村徳斎の「徳斎」、
土田友湖の「友湖(ゆうこ)」、
龍村美術織物の「龍村」などがあるようです。
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■色紙点前
色紙点前は、淡々斎が、円能斎の好んだ御所籠を用いて、
創案した点前みたいです。

色紙点前の名の由来は、
四枚の古帛紗を最大限に活用し、
茶巾箱と古帛紗を置き合わせた道具の配置が、
ちょうど色紙を散らしたように見えるところ来ているそうです。

昭和18年5月、淡々斎と奈良の薬師寺の管長橋本凝胤が図って、
海軍省に50個余りの陣中茶箱を寄贈したそうです。

陣中茶箱の寸法は、利休形茶箱の小を用い、
茶碗は二碗を重ね、上の茶碗は赤膚焼きで富士山の絵が描かれ、
下の茶碗は美濃の笠原焼の黄瀬戸で、
見込に「慶溢万齢」と捺されていたようです。

そして、卯の花点を改良した「陣中点前」を考案し、
艦艇内では卓椅子にて、陸上においては野外で出来るよう工夫したそうです。

陣中茶箱を使用した色紙点前は、以下の手順で行うみたいです。

1.まず二碗の茶碗を入れ子にして重ね、間にへだてを入れる。
2.その茶碗を大の大津袋に入れて結び、籠の点前に入れる。
3.茶筅を茶筅筒に入れ、籠の右向こうに入れる。
4.茶巾を八つ折りにたたんで、茶巾箱に入れて袋に入れる。
5.茶筅筒の手前に入れる。
6.振出には金平糖・豆類の歌詞を入れる。
7.組み緒の網に入れて長緒結びに結び、籠の左向こうに仕組む。
8.四枚の古帛紗のうち、一枚は棗・茶杓を置くのに用いる。
9.一枚は、茶碗をのせて点茶に用いる。
10.残り二枚は茶碗を客に出すのに用いる。
11.四枚の古帛紗を重ね、ワサが上になるように茶碗を左方に入れておく。
12.茶杓は袋に入れて茶碗の上に斜めに伏せて置く。
13.帛紗をさばいて茶杓の上に置く。
14.籠の蓋をして打ち緒を結ぶ。

ちなみに、戦後になって、陣中点前に新しい工夫が加えられたのが
和敬点だそうです。
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ここでは、色紙点前の準備などに関して説明しようかと思います。


■御所籠の中に道具を仕組む
1.薄茶器に茶を入れ、茶碗二碗を入れ子に重ね、
 茶碗と茶碗の間には、へだてを入れておく。
2.薄茶器を仕覆に入れて茶碗に仕組み、
 それを大の大津袋に入れて、籠の中の手前に入れる。
3.振出は、中に金平糖や豆類等を入れ、
 組み緒の網に入れて長緒に結び、
 籠の中の左向こうに入れる。
4.茶筅を茶筅筒に入れて、籠の中の右向こうに入れ、
 茶巾箱を袋に入れて、茶筅筒と茶碗の入った大津袋との間に置く。
5.茶杓は袋に入れ、茶碗の上に伏せて載せ、
 帛紗を草に畳んで、茶杓の上に載せ、籠の蓋を閉めて、
 打ち紐を結んでおく。


■古帛紗について
古帛紗は、四枚用いるのですが、
一つ目は、金襴などの裂で、薄茶器・茶杓を載せるために使うそうです。
二つ目は、紫塩瀬で、点茶用として茶碗を載せるみたいです。
三つ目と四つ目は、同じ裂の緞子を用い、茶碗を客に出す時に使うようです。

一つ目~四つ目を順番に重ね合わせて、
籠の中で、左から順にワサが上になるようにして
茶碗の横に仕組むそうです。

2017年9月29日金曜日

四季の歌の色紙ってこんなの


動画の色紙は、西部文浄老師の書かれた四季の歌の色紙です。

四季の歌は、
春が
「おほかたに 春のきぬればはる霞 四方の山辺に たちみちにけり」
源 実朝(金槐和歌)

夏 が「夏ころも たちしときよりあしびきの 山時鳥 なかぬ日ぞなき」
源 実朝(金槐和歌)

秋 が「みわたせば 花ももみぢもなかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」
藤原 定家(新古今和歌)

冬 が「冬ごもり おもひかけぬを木の間より 花とみるまで 雪ぞふりける」
紀 貫之(古今和歌)

となるそうです。
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西部文浄(にしべぶんじょう)老師は、
大正14年生で、東福寺塔頭同聚院の前住職です。
平成6年に亡くなられています。

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■色紙とは
色紙は、和歌・俳句・書画などを書く、方形の料紙のことだそうです。

色紙という名前は、元来は染色した紙のことを言ったようです。
詩歌などを書く料紙としては、
屏風や障子などに詩歌などを書き入れるために染色した紙を押し、
これを色紙形と呼んだことに由来するのだとか。

色紙の寸法は「大:縦×横=六寸四分×五寸六分」「小:縦×横=六寸×五寸三分」
の二種があるようで、これに準じた方形の料紙も総称して色紙と言うみたいです。

色紙として最も古いものとしては、藤原定家筆と伝える小倉色紙で、
小倉百人一首として有名なのだとか。

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■小倉色紙(小倉百人一首)
鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、
藤原定家が作成した色紙で、成立当時は、
「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」と呼ばれたそうです。
後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、
「小倉百人一首」という通称が定着したとか。

高砂の 尾上の桜 咲きにけり
 外山の霞 立たずもあらなむ

小倉色紙「たかさこの」は、天文24年(1555年)、武野紹鴎が茶会に用い、
初めて茶席の掛け物とされた和歌として特筆されたようです。
この幅には、千利休の消息が添い、
利休は、この幅を借用して茶会に用い、大いに面目をほどこしたのだとか。

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■書画用の色紙
色紙は、古くから短冊と同様に書道作品に用いられ、
絵画作品にも多く用いられたそうです。

近現代では著名人のサインや寄せ書きにも用いられ「サイン色紙」と言うみたいです。

また色紙という語は「短冊形」に対する「色紙形」の略語としても用いられるようです。

書画用の色紙は正方形に近い形の厚紙でできていて、
金縁が施され、片面には金粉や銀粉などを散りばめられているものも多いとか。

なお、色紙は本来、金粉や銀粉などが散りばめられているほうが表面だそうですが、
書画やサインなどは、謙遜の意味であえて裏面の白いほうが用いられるといわれているようです。

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■文献
1734年刊『本朝世事談綺』に
「色紙短尺の寸法は三光院殿よりはじまる御説、
大は堅六寸四分、小は堅六寸、横大小共に五寸六分」
とあるとか。

1777年刊『紙譜』に
「色紙大小あり、縦大六寸四分、小六寸、横大五寸六分、小五寸三分」
とあるそうです。

『今井宗久茶湯日記書抜』に
「天文二十四年十月二日 紹鴎老御会 宗久 宗二
一 イロリ 細クサリ 小霰釜、水二升余入、ツリテ、
一 床 定家色紙、天ノ原、下絵に月を絵(書)ク、手水ノ間に巻テ、
一 槌ノ花入 紫銅無紋、四方盆ニ、水仙生テ、
一 円座カタツキ、水サシ イモカシラ 
一 シノ 茶ワン 備前メンツウ」
とあるみたいです。


2017年9月28日木曜日

聞香炉ってこんなの


動画では、聞香炉(もんこうろ)と聞香(ききこう)の読み方が、混ざってしまいました。

聞香炉(もんこうろ)は、香りを焚いてその香りを聞く「聞香(ききこう)」に用いる香炉だそうです。
茶席でも、七事式の且座之式・唱和之式・仙遊之式・三友之式・
香付花月などに用いるとか。

聞香炉を準備する場合は、灰を押切にするそうです。
大切なのは、香炭団(こうたどん)が消えないようにすることなのだとか。
風炉灰を温めておき、底からよくかき混ぜて、空気を含ませるみたいです。

香を焚く際は、頂上に銀葉をのせるので、
香炭団は真直ぐ立てて埋めるようです。
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■香炉とは
香炉(こうろ)とは、固体状の香料を加熱し、
香気成分を発散させる目的で用いる器だそうです。

上面または側面に大きく開口した筒・椀・箱・皿状の容器で、
床や机との接触を避ける目的から、ほとんどのものが脚を備えているみたいです。
また、持ち運べるように柄のついた「柄香炉」もあるみたいです。

穴の空いた蓋(火屋)を備えたものも存在するみたいですが、
茶道や香道で用いる「聞香炉(もんこうろ)」は、蓋を持たないようです。

茶道で用いる香炉は、原則として足一つを正面にして荘るそうです。
模様や釉がかりに景色がある場合には、その部分のある足を正面にするとか。
また、蓋の摘みに、動物などがついている場合には、
その面(おもて)が正面になるように扱うようです。

材質は、通常、陶磁器や金属・石材などみたいですが、
仏前または葬儀での焼香には、漆器やプラスチックの外枠に、
焼香用の香と香炉を備えた長方形の「角香炉」が用いられることもあるとか。

日本の仏具において灯明(燭台)・花瓶(花立て)とともに、
三具足(五具足)のひとつとされるようです。

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■日本での香炉の歴史
8代将軍足利義政の時代、青磁や銅で出来た香炉が中国から伝来し、
香炉の形や使われ方が、現代の香炉のそれに繋がってきたようです。

もとは仏や菩薩の供養のために香を焚く仏具だったみたいですが、
床の間や書院の荘りとして用いられるようになったとか。

室町時代に始まる「聞香(もんこう)」は、
当時から蓋のない香炉が使われたみたいです。

桃山時代になると、侘び寂びの茶道が発展し、
「香炉」はあまり使われなくなったそうです。

江戸時代に入り、特に武家の茶道が発達するとともに「香炉」が復活し、
これが上流商家にも使われるようなるとか。

江戸中期から後期にかけて商家の勢いが増し、
明治維新とともに中流階層の数が爆発的に増えると、
床の間を飾る「香炉」の生産が各生産地で増えて現在に至っているそうです。

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■空焚香炉(そらだきこうろ)
空焚香炉は、掛物に神号や仏号、画像などを掛けたときに、
その前で香を焚くために用いる香炉だそうです。

古くから伝わる炊き方で、
香木・練香・印香をたいて部屋に香りを漂わせるみたいです。

畳床に荘るには、香炉ををのせる卓(じょく)が必要となるようです。
これは、中央卓・春日卓・冠卓などのほか、
卓を略して丸盆や丸香台、薄板にのせる場合もあるとか。

板床の場合は、卓や台は用いないみたいです。

空焚香炉には、以下のようなものがあるようです。
種類備考
袴腰(はかまごし)人が袴を付けた様に見えることからの名称。
千鳥(ちどり)底の高台が大きく、周囲の三本の足が浮き上がったもの。
切立(きったち)筒型のもの。
一重口(ひとえぐち)切立てたままの口造りのもの。
阿古陀(あこだ)カボチャの一種の阿古陀瓜に形が似ていることからの名称。
獅子(しし)獅子に似せた形の香炉。
舟(ふね)舟に似せた形の香炉。

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■袖香炉(そでこうろ)
衣服に香を焚きしめるために用いられる、
携帯用の丸い香炉みたいです。
袖炉(しゅうろ)とも言うそうです。

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■アロマテラピー(アロマセラピー)
花や木など植物に由来する芳香成分(精油)を用いて、
心身の健康や美容を増進する技術もしくは行為のことだそうです。
また、お香やフレグランス・キャンドルも含め、
生活に自然の香りを取り入れてストレスを解消したり、
心身をリラックスさせることも含めて呼ぶ場合も多いとか。

香りに関しては、5000年以上前から使われていたようですが、
アロマテラピーの原型と言えるのは、
ペルシアのイブン・スィーナーが、
蒸留による精油の製法を確立し医学に応用したのが始まりみたいです。

このアロマテラピーで香りを出すのに使われる道具は、
アロマディフューザー:精油を微粒子化して拡散させる方式、
 または、水と精油を超音波でミスト化して拡散させる方式。
アロマランプ:電球やヒーターなど電気の熱で精油を温める方式。
アロマライト:電気や電池方式。
アロマポット:キャンドル方式。
などがあるようです。
香炉に近いのは、アロマポットでしょうか。

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■振り香炉(ふりこうろ)
振り香炉は、キリスト教の礼拝に用いられる香炉だそうです。

金属製の鎖によって吊り下げられた金属製の香炉で、
鈴が鎖に付けられている事が多いとか。

振り香炉が振られる際に発せられる鈴の音は、参祷者に祈りを促すとともに、
聖堂において炉儀(ろぎ)が行われている事を、
聖堂内の信徒に知らせる働きを持つようです。

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■火取り香炉
香道の香席に、熾した炭を持って行くのに用いる容器みたいです。
火屋をかぶせた香炉に似ているそうですが、
これで香を焚くことはないとか。

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■茶香炉
1997年、愛知県半田市に本社を置く愛知化学陶磁器が、
アロマテラピーで用いるアロマポットにヒントを得て
商品化したものに「茶香炉」があるそうです。

2001年に全国地場産業優秀技術・
製品表彰の最優秀賞「中小企業庁長官賞(地場産大賞)」を獲得したことから、
広く知られるようになったとか。

アロマポットより高い温度で茶葉を焚き、
使用済みの茶葉は焙じ茶として用いることができるみたいです。
茶葉の代わりに、コーヒー豆などを用いて香りを聞くこともできるとか。

現在は、全国で生産されているそうで、
焼〆三角柄・焼〆丸柄・石風角形などの他、
かわいいフクロウのついたものまで、形も様々みたいです。
材質も、備前・常滑などの陶器の他、ガラス製もあるようです。

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■千鳥の香炉
久須見疎安著『茶話指月集』に、以下の話があるそうです。

利休は過分の領地を拝領して、家も豊かでありましたから、
ある年、連歌師の宗祇が所持していた「千鳥の香炉」を
千貫文で買い求めました。

しばらくした頃、香炉を畳に置いて眺めていると、妻の宗恩が、
「私にも拝見させてください。」
と言って。しばらく眺めてから、
「足が一分(約3mm)ほど高くて、恰好が悪いので切ったらいかがでしょう。」
と言いました。利休も
「私も先ほどからそう思っていた。玉屋を呼びなさい。」
と言って、ついに一分だけ足を切らせました。

この宗恩は、茶の湯の作意にすぐれていて、
昔は短檠に取手の穴がなかったのを、
はじめて開けさせた人です。

2017年9月27日水曜日

重香合ってこんなの


重香合(じゅうこうごう)は、銀葉などを入れる三重の箱で、
茶道では、塗物の丸形三つ重ねとなったものみたいです。

上段に香を包んだ香包、
中段に銀葉をそれぞれ入れ、
下段は香の焚きがらを入れるようです。

香盆に置く場合、
香盆の右に重香合、左に聞香炉、
香盆の中央に銀葉挟を横一文字にして置き、
香箸を縁にかけてのせるみたいです。

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香(こう)というと、本来は「伽羅」「沈香」「白檀」などの天然香木の香りを指すそうです。
そこから「線香」「焼香」「抹香」「塗香」などの香り、またこれらの総称として用いられるみたいです。

仏教では、香を焚くと不浄を払い心識を清浄にするそうで、
仏前で香を焚き、花や灯明とともに仏前に供するようです。
ここから「香華を手向ける」という言葉があるとか。

茶道では、炭点前などで使用するほか、七事式の且座之式のように、
「香りを聞く」こともあるようです。
風炉の場合は香木、炉の場合は練香を使用するみたいです。

ここでは「香の歴史」「香道」「香道で使う道具」「且座之式」の順に
説明していこうと思います。


■香の歴史
香の歴史はかなり古く、紀元前3000年前のメソポタミア文明のころまで遡るそうです。
種類も多く、白檀、丁香などの「樹木の皮・葉・根などの粉末」や、
乳香、安息香などの「芳香のある樹脂」、
麝香、竜涎香などの「動物性のもの」があるそうで、
ふつう「香木(明香)」と「練香(煉香・合香)」とに分けられるみたいです。

また、使用方法の違いで、焚いて使用する香「焼香」と、
焚かずに体に塗る香「塗香」に分けられるようです。

日本書紀によると、香木は595年に淡路島に漂着したそうです。
その後、宗教、主として仏教の儀礼で香木が焚かれるようです。

平安時代になると、宗教儀礼を離れて、香りを聞いて鑑賞するようになり、
薫物合せ(たきものあわせ)などの宮廷遊戯が行われたのだとか。

室町時代の東山文化の頃、茶道や華道が大成するのとほぼ同時期に、
香道の作法も整い、現在の形に近いものになったそうです。
また、香を茶道にも取り入れ、書院の床の正面に香炉を飾って、
香をたくようになったみたいです。
当時、香合は香炉の脇役だったとのこと。
この頃の香合の素材は、金器・銀器・漆器・木彫・古代蒔絵などが好まれたそうです。

桃山時代になり、陶磁器製の香合が使用され始めるそうです。
利休が楽焼の香合を作らせたのが焼物香合のはじまりなんだとか。
やがて、織部焼・野焼・瀬戸焼・備前焼・唐津焼などの国焼物の香合がでてくるみたいです。

江戸時代初期になると、外国製品尊重の思想から、
中国の古染付・祥瑞・青磁・交趾焼等の形物香合が主流となるようです。

香合については、別ページで説明しています。

香木の分類法である「六国五味(りっこくごみ)」などは、
室町時代頃に体系化されたようです。

六国五味というのは、香木の香質を味覚にたとえて、
辛・甘・酸・鹹(しおからい)・苦の五種類に分類する「五味」と、
その含有樹脂の質と量の違いを六種類に分類する「六国」のことを指すそうです。

六国五味の詳細は以下のようになるみたいです。
木所読み方原産国五味
伽羅きゃらベトナム
羅国らこくタイ
真那伽まなかマラッカ無味
真南蛮まなばんマナンバール
佐曾羅さそらサッソール
寸聞多羅すも(ん)たらスマトラ



■香道
香りを楽しみ、日常を離れた集中と静寂の世界に遊ぶことを目的としたもので、
香木の香りを聞き、鑑賞する「聞香(もんこう)」と、
香りを聞き分ける「組香(くみこう)」の二つが主な要素だそうです。

香木の焚き方は、以下の手順だそうです。
1.聞香炉に灰と、おこした炭団(たどん)を入れ、灰を形作る。
2.灰形の上に、銀葉という雲母の板をのせる。
3.数ミリ角に薄く切った香木を熱し、香りを発散させる。
4.銀葉を灰の上で押すことにより、銀葉と炭団の位置を調節する。
 これにより伝わる熱を調節し、香りの発散の度合いを決める。

香道には、古くから香に関する訓や効用を記した「香十徳」というのがあるそうです。
徳の名称読み意味
感格鬼神感は鬼神に格(いた)る感覚が鬼や神のように研ぎ澄まされる
清淨心身心身を清浄にす心身を清く浄化する
能除汚穢よく汚穢(おわい)を除く穢(けが)れをとりのぞく
能覺睡眠よく睡眠を覚ます眠気を覚ます
静中成友静中に友と成る孤独感を拭う
塵裏偸閑塵裏に閑(ひま)をぬすむ忙しいときも和ませる
多而不厭多くして厭(いと)わず多くあっても邪魔にならない
寡而為足少なくて足れりと為す少なくても十分香りを放つ
久蔵不朽久しく蔵(たくわ)えて朽ちず長い間保存しても朽ちない
常用無障常に用いて障(さわり)無し常用しても無害


■香道で使う道具
香道で使う道具は、以下のものだそうです。
ちなみに茶道では「香合」を使用するなど、道具組みが少し違うようです。

香炉:聞香炉、火取り香炉
七つ道具:銀葉挟、きょうじ、香匙、鶯、羽箒、こじ、灰押
盆・箱など:四方盆、乱箱、志野袋、長盆、重香合、総包
そのほか:地敷、香盤、銀葉、名乗紙、香包

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■且座之式
七事式の且座之式(しゃざのしき)について簡単に説明してみます。

これは、本来五人で行う儀式で、
「東(とう)」「半東(はんとう)」「炭」「花」「香」の役割があり、
その役は、その時引いたくじで決めるのだそうです。

亭主を「東(とう)」、亭主の補助役を「半東(はんとう)」、客は三人。
それぞれ、
次客→花をいける
三客→炭をつぐ(初炭点前)
正客→香をたく
東→濃茶を点てる
半東→東のために薄茶を点てる
となるみたいです。

花をいける→炭をつぐ→香をたく→濃茶→薄茶
という感じでなるでしょうか。
結局、一人だけお茶を飲めない人が出るのですが、誰でしょう?


2017年9月26日火曜日

オランダ皆具ってこんなの



■オランダとは
オランダ皆具(かいぐ)などの「オランダ」は、
純粋に「オランダ」と調べても「デルフト焼かな」
といったことしかわかりませんでした。

そこで、勝手に考察した結果、
「マイセン陶で開発された中国風の陶器に、
 伊万里風の絵柄をつけた、
 オランダで作られた陶器(デルフト陶器)のこと」
ではないかと考えました。

少なくとも江戸時代以降に、
「マイセン+最初の和蘭陀=オランダ製の陶磁器」
そして、
「お茶+オランダ製の陶磁器=オランダ皆具」
となっていったのではないかと。

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■デルフト焼きとは
オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器で、
白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされるのだとか。

陶都デルフトでは、高価な舶来品である東洋磁器の形や装飾を陶器で
 模倣することに着目するそうです。
中国明時代の染付(そめつけ)や柿右衛門などを模倣した陶器は、
ヨーロッパ各地で絶大な人気を博し、
近隣の他の窯でもこれを実践するようになると、
以後オランダで焼かれる陶器はすべてデルフト焼と呼ばれるようになるみたいです。


■デルフト焼の歴史
デルフト焼は、1640年~1740年に生産がもっとも盛んだったそうです。

17世紀初頭の中国磁器が、オランダ東インド会社によって、
オランダに大量に輸入されていたみたいですが、
1620年に明の万暦帝が死去すると、
中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶えるそうです。

その後、オランダでは、中国磁器の優れた品質と精密な絵付けを、
模倣するようになるみたいです。

1654年のデルフトで、弾薬庫に保管されていた火薬が大爆発を起こし、
多数の醸造所が甚大な被害を被ったようです。
これによりデルフトの醸造産業は衰退し、
広い醸造所跡地を広い工房が必要だった陶芸職人が買い取ったのだとか。

1750年以降のデルフト陶器は衰退するようです。
「巧妙だが繊弱な絵付けがなされている。
風合いにも独創性にも欠けており、
18世紀終わりからのデルフト陶器産業は、
残念なことに衰退の一途をたどった。」
とのこと。

現在、スズ釉薬を用いたデルフト陶器を生産しているのは、
王立ティヒラー・マッカム工房だけみたいです。

1512年 アントウェルペンのグイド・ダ・サヴィーノが
 スズ釉薬で絵付けされた陶器を最初に制作した。
1560年代 オランダ南部からオランダ北部へと広まっていった。
1570年代 ミデルブルフやハールレムで陶器の製造開始。
1580年代 アムステルダムで陶器の製造開始。
1602年 オランダ東インド会社設立。
1609年 オランダと日本の交易開始。
1610年~1640年 10名の陶芸職人がマスターとして登録される。
1640年頃 個人のモノグラムや工房の意匠に、デルフト陶器が使用される。
1647年 柿右衛門が赤絵に成功。
1651年~1660年 9名の陶芸職人がマスターとして登録される。
1669年 オランダ東インド会社が有田に磁器を大量注文。
1677年 デルフトのA・デ・ミルデが赤色炻器を完成。
1700年頃 3回の低温焼成の工程が必要とされる、
 スズ釉薬の上にエナメル顔料を用いた絵付けをする工房が出てくる。


■デルフト焼の特徴
デルフト焼といえば、デルフトブルーだそうです。
オランダのデルフト陶器にちなんだ、
濃く鮮やかな青を指す言葉なのだとか。

中国の陶磁器を真似た青色で、
通常の磁土で作られていたわけではなく、
焼いたあとにスズのグレーズでコートしたものなのだそうです。
そのためデルフト焼は、陶磁器ではなく「陶器」と呼ばれるようです。

国の陶磁器はヨーロッパにとってあこがれの存在だったようで、
特に陶磁器をチャイナと呼んだそうです。

陶器と磁器の違いは、原料となる粘土の違いみたいです。
つまり、陶器はカオリンを含まない粘土(土質)を、
低温で焼いて作られるのに対し、
磁器は石質即ち長石が主成分を成している磁土を、
高温で焼き使うのが大きな特徴です。

また、肥前国有田で焼かれた伊万里焼が珍重され、
オランダ・デルフト市の陶器デルフト焼の文様には、
伊万里の染付磁器の影響も見られるそうです。


■その他
オランダのマウリッツハウス美術館に
「デルフトの眺望」という、
フェルメールの代表的風景画があります。

2017年9月25日月曜日

杓立ってこんなの


杓立は、杓立は長板や台子に飾りますが、
柄杓を手前へ、火箸は柄杓の柄を挟んで向こうへもたせてさすそうです。
杓立のある時は柄杓は蓋置へ引かず、いつもまっすぐに杓立へさすようです。

長板の場合は、水指・杓立・建水・蓋置を飾りますが、初飾も二飾も、
炉の場合は向かって左側に、風炉の場合は真ん中に飾るみたいです。

台子の場合の地板に飾る杓立の位置は、初飾・二飾・総飾共に、長板の場合と同様
炉の場合は向かって左側に、風炉の場合は真ん中に飾るそうです。

ただし、点前によっては、杓立の位置が変わる場合もあるようです。

室町中期のいろは引き分類辞書『雑字類書(文明本節用集)』に
「茶瓢 チャヘウ 柄杓立(ヒシャクタテ)也」
とあるみたいです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「杓立之部 古名ヒシャク立」
とあるそうです。

立花実山著『南方録』に、
「台子にては、カネの物ならでは、水指、杓立、こぼし、蓋置ともに用いず候。」
とあるそうです。

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長板は、台子の地板または上板をかたどったもので、
真塗が利休形で大小二種あって、
大きいものは風炉用、小さいものは炉用としているそうです。

それぞれの大きさは、
風炉用は長さ二尺八寸、幅一尺二寸、厚さ六分。
炉用は長さ二尺四寸、幅一尺、厚さ四分。
みたいです。

藪内竹心著『源流茶話』に以下の話があるようです。
台子は真の道具です。
長板は台子の上板より見立てられたもので、
金(かね)風炉をのせ、行の茶湯とし、
四畳半の炉にかざられます。

小板は草の道具で、風炉に用いられます。
大板・中板・小板は大中小の風炉に応じて用いられます。
茶を点てる時に、小板の右の隅に茶巾を置くのは、
台子の場合の茶巾を置く位置になるからです。

立花実山著『南方録』に
「台子の上の板を、上段の板、下を長板といふなり。」
とあるようです、

藪内竹心著『源流茶話』に
「長板ハ台子の上板より見立てられ」
とあるそうです。

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皆具は、台子や長板に飾る道具一式のことで、
本来は、装束・武具・馬具などのその具一式がそろっているものをいったそうです。
水指・ 杓立・ 建水・ 蓋置の四器が同一のもののほか、
現在では風炉・ 釜も統一した意匠で揃えられているものもあるようです。

皆具は、1259年「宋」に渡った臨済宗の僧、南浦紹明によって、
台子とそこに飾る 風炉・ 釜・ 杓立・ 建水・ 蓋置・ 水指の唐銅皆具を日本に伝来したのが最初のようです。
これは、南浦紹明が帰朝の折に、虚堂から餞別として台子と皆具一式を贈られたといわれているみたいです。

唐銅の皆具は「真の皆具」みたいです。

2017年9月24日日曜日

茶通箱(茶桶箱)ってこんなの


これは、茶通箱です。

もとは抹茶を持ち運ぶ通い箱だったものを利休が点前に用いたのが始まりだとか。

現在では二種の濃茶を客にもてなす時の点前に用いる箱だったり、
珍しい茶や、客から茶を貰った時に、
亭主が用意の茶と、客から到来の茶、
との二種類の濃茶を点てる点前に用いる箱だったりするみたいです。
後者の場合は棚を用いるようです。

利休形茶通箱は、用材が桐で寸法は大小伝えられているそうですが、
いずれも薬籠蓋になっているとのこと。

ちなみに薬籠蓋というのは、
器物の身の内側に立ち上がりを作り、
蓋をすると身と蓋の境目が同じ高さになって、
表面が平らに重なる蓋のことを言うとか。

名前の由来は、身の内側の立ち上がりに蓋がぴったりとハマるため密閉性が高く、
薬籠や印籠に見られることからだとか。
印籠蓋とも言うようです。

茶通箱には、
「利休形茶通箱」「利休形三つ入茶通箱」
「利休形桟蓋茶通箱」「元伯好三つ入茶通箱」、
表千家の「原叟好茶通箱」「原叟好挽溜茶桶箱」「如心斎好桟蓋茶通箱」、
裏千家の「仙叟好二方桟蓋茶桶箱」「玄々斎好出合桟蓋茶通箱」
などがあるそうです。

また、桐木地のほかにも一閑、菊置上、溜塗なんかがあるようです。

茶通箱の蓋には、利休形は野郎(薬籠)蓋、
仙叟好は桟蓋、玄々斎好は出会桟があるみたいです。

立花実山著『南方録』には、
「人の方へ茶を贈る時、持参することもあり、
先だつて持せつかはすこともあり。
濃茶 うす茶両種も、また濃茶一種も、
また濃茶ばかり二種も、それぞれの心持しだいなり。
薄茶は棗、中次の類なり。
箱は桐にて、蓋はさん打なり。
緒は付けず、白き紙よりにて真中をくヽりて封をする。
封の三刀と云こと、秘事なり。大小は茶入に依て違べし。」
とあるみたいです。

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茶通箱に関する文献を少々見てみようかと思います。

藪内竹心著『源流茶話』に
「茶通箱に大小の茶桶を取組、
大津袋をかけ、両種だて致され候ハ利休作意にて候」
とあるみたいです。

稲垣休叟著『茶道筌蹄』に
「茶通箱 唐物點 臺天目 盆點
 亂飾 眞臺子 右何れも相傳物ゆへ此書に不記」
とあるようです。

江戸時代茶書『茶式花月集』に
「一 傳授之分 茶通箱 唐物點 臺天目 盆點 亂飾」
とあるそうです。

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ちょっと話題を逸れて「さつう(茶通・茶桶)」に関して説明しようと思います。

さつうは、薄茶を入れる器のひとつ。
合口がずっと上にあり、蓋も浅く、種類がいくつかあるようです。
棗の登場以前から茶会記などに登場しているそうです。
本ホームページでは「棗の形(中次系)」として紹介しています。
ちなみに中次という名前は、蓋と身の合わせ目(合口)が胴のほぼ中央にあることに由来しているそうです。

津田宗達・宗及・宗凡著『天王寺屋会記』の天文19年2月21日に
「田嶋堪解由左衛門殿會 人数 達 好 弥三
一 ふじなり釜・たきおけ、二置、一枚板、
一 床 墨跡、きたう(虚堂)、
一 茶碗 亀ノふた、後持出、茶さつうに入、茶 無上」
とあるようです。

また『君台観左右帳記』には、さつうの図があるようです。

室町時代初期の『喫茶往来』では、
「茶桶の蓋に茶園の銘を書き入れた」
とあるそうで、席での茶器として使われていたみたいです。

『庭訓往来』『遊学往来』『尺素往来』など当時の書物の中でも「さつう」の記述が
見られるようです。

十四世紀頃の記述として、『金沢文庫古文書』や『仏日庵公物目録』には、
「さつう」の他、「茶筒」の記述もあるそうです。

2017年9月23日土曜日

いろんなお盆ってこんなの


八卦盆は、行台子をする時に必要なお盆だそうです。
中に書かれているのが八卦です。

「卦」は、爻(こう)と呼ばれる記号を三つ組み合わた三爻からできていて、
─陽(剛)と--陰(柔)の2種類の組み合わせで八卦になるそうです。
爻の順位は下から上で、下爻・中爻・上爻の順になるようです。

また、八卦を2つずつ組み合わせることにより六十四卦が作られるのだとか。

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大円盆は「大円之草」などで使用するそうです。

この「大円之草」は円能斎が考案したそうです。
これは、昔から伝わる「大丸盆点」を発展させたものなんだとか。

さて、話は変わって、「大丸盆」というと「ウチワサボテン」というサボテンの一種なんだそうです。
このサボテン、正体がはっきりしてないようで、直径30cmを超える丸い茎節を持つものであれば、
なんでも大丸盆というみたいです。

他の特徴として、
・茎節は真円に近い丸型
・目立つ刺はなく、1本でまばら
・茎節は1~2cm程度の厚みがある
・肌は粉を吹き青みがある
とかがあるそうです。

おいしくはないようですが、食べれるらしく、
果実は赤紫色に熟し、美味とはいえないが、ほんのりと甘いみたいです。
棘を取ってピクルスにしたり、せき・解熱などに薬効があるとして、
汁を絞って民間薬として服用されたこともあったのだとか。

現在も、
「ノパル エンデュランス」
 :ウチワサボテン/持続・スタミナサポートのサプリ
「フィコ・ディ・インディア」
 :ウチワサボテンの実をアルコールに浸漬し、
 蜂蜜と砂糖を加えて造られるイタリア産リキュール
「スリムロワイヤル」
 :ウチワサボテン末のダイエットサプリ
といったものが販売されているようです。

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茶入を据える四方盆には「若狭盆」「松木盆」「羽田盆」「黒漆四方盆」などがあるそうです。

四方盆に関する記述としては、
山上宗二著『山上宗二記』に、
「桃尻  関白様  本は 紹鴎 所持也。
但し、古銅花入、天下一名物。五通の文を指す。四方盆にすわる。」
「紹鴎茄子 四方盆に居わる。かんとうの袋に入る。 関白様 」
とあるようです。

また、稲垣休叟著『茶道筌蹄』に、
「松木 四方盆葉入春慶。 紹鴎 より 利休 へ伝へ、 利休 より今小路道三に伝ふ。
道三箱書付に翠竹とあり、翠竹は道三の院号なり。
老松同木にてうつしあり。原叟如心斎も製之。
一閑 元伯好。ヒネリ縁の盆なり。初代一閑作。
千家伝来。如心斎の書付あり。黒漆 保元時代。四方なり。
利休 所持判あり。千家に伝来す。」
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丸盆は丸いもの、菱盆はひし形のお盆です。
他に五角盆などもあります。

点前の時の拭き方が違うそうです。

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山道は、器の口辺が、あたかも山道のように凹凸をなすものだそうです。
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花型盆は、茶箱の花の点前用のお盆だそうです。

2017年9月22日金曜日

茶巾皿と小茶巾ってこんなの


こちらは茶巾皿に茶筅をのせたものです。

茶巾皿は、茶事・茶会において、
席中の茶巾を取り替えるときなどに、
水屋から新しい茶巾を載せて、
持って出るものだそうです。

平茶碗の小さなものなどを、
用いることもあるとか。

--------------
こちらは小茶巾入れです。

濃茶の時、茶碗の縁を清める小茶巾を携帯する入れ物で、
濡れた小茶巾を、そのまま帛紗挟みなどに仕舞うことができないために、
必要となる小物みたいです。

布やビニール、キルト製などで、内は防水加工がされていて、
仕切りがあり、小茶巾の使用前・使用後で、使い分けれるようになっているそうです。

大きさは、縦×横=約6.5cm×9.0cm~7.5cm×11cmくらいがあるようです。

色柄ものがあって、数百円程度で販売しているみたいです。

最近は、学校やクラブ活動の備品としても使用されるのだとか。
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小茶巾は、裏千家で、濃茶を飲んだ後の茶碗を清めるために用いる小布のことで、
素材は麻が主だそうです。
不織布製の「紙小茶巾」と呼ばれるものもよく使われているようです。

最近は、ウェットティッシュのようにあらかじめ湿らせてある状態のものが
「湿し小茶巾」「濡れ小茶巾」などの名称で市販されているとのこと。

事前に湿らせて折りたたんでおき、
濃茶を飲んだ後に茶碗の飲み口を拭って次客へと茶碗を廻すのですが、
たたみ方や使用する順番などは各流派によってまちまちなんだそうです。

その用途から、使い捨てであることが多いようですが、
布製の場合は洗って何度か使うこともあるとか。

茶会では小茶巾を亭主側が用意することも多いそうで、
その場合に使用する道具に茶巾落しがあるようです。

茶巾落しは蓋のある容器で、
蓋には使用済の小茶巾を落すための穴があるみたいです。

蓋の上に客の人数以上の紙小茶巾を並べ、
濃茶の茶碗より先に客席に運ばれるのだとか。

表千家では、懐紙で茶碗を清めるため小茶巾は用いられないそうです。

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最近は、湿し小茶巾(濡れ小茶巾)というものもあるようです。

湿し小茶巾(しめしこぢゃきん)は、
ウェットティッシュのように、
はじめから濡れた状態の小茶巾が、
ビニール袋に、観音畳みで、
一枚ずつ入ったものだそうです。

材質は、滅菌処理された不繊布で、
寸法は、20cm×14.5cmみたいです。

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茶巾台(円筒形で半蓋)は、濃茶の席で、
上に乗っている小茶巾で、茶碗の飲み口をく拭くために、
亭主から出される器だそうです。

落とし込みの部分に木地板がはめられ、
そこに茶巾をのせて使用済みのものを、
茶巾台の口から中で落とすようにして使うようです。
末客は茶道口の方に返すのだとか。

形は、淡々斎好が溜塗の曲、
又妙斎好・円能斎好が陶器の壷の上に皿を重ねたもの、
みたいです。

2017年9月21日木曜日

吹貫蓋置ってこんなの



ここでは、竹蓋置について説明します。

竹蓋置(たけのふたおき)は、竹を逆竹に切って、
節に小さな空気抜の穴をあけた蓋置だそうで、
運び点前または小間で用いるようです。

炉・風炉の別があるみたいで
風炉用は「天節(てんぶし)」といい上端に節があり、
炉用は「中節(なかぶし)」といい節が真中よりすこし上にあるとか。
吹貫のものは時期を選ばず用いるのだとか。

ただ、利休時代、天節を風炉に、中節を炉にと、
定めた記録(逸話)はないそうです。

裏千家八代一燈より以前は、
炉・風炉での蓋置の区別はなかったみたいです。

竹蓋置は、引切(ひききり)ともいい、
当初、青竹を鋸で切ったものを一回限りの使い捨てとしたようです。
後に、使われた青竹を油抜きして花押などを乞う様な事が行われ、
転じて白竹の蓋置ができたみたいです。


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蓋置の種類は多く、特に「表七種(千利休選出)」と
「裏七種」の「七種蓋置」が有名みたいです。
表七種は「火舎」「五徳」「三葉」「一閑人」「栄螺」「三人形」「蟹」で、
裏七種は「印」「惻隠」「太鼓」「輪」「井筒」「糸巻」「駅鈴」だとか。

ここでは、七種蓋置について一覧にしてみます。
まずは、表七種蓋置から。
表七種 火舎(火舎香炉) ほや。
火舎は、火屋・穂屋とも書き、香炉・手焙・火入などの上におおう蓋のこと。
七種蓋置のうち、最も格の高いものとして扱われ、主に長板や台子で総飾りをするときに用いる。

火舎は、「火舎香炉」の略称で、小さな火舎香炉を起用したのが最初。
千利休は「香炉蓋置」と言ったとか。
五徳 ごとく。
炉や風炉中に据えて釜を載せる五徳をかたどった蓋置。
火舎蓋置に次ぐ格の蓋置として、台子、袋棚にも用いられるが、
透木釜、釣釜を使う炉の場合や、切合の風炉の場合など、
五徳を使用しない場合に用いる。

※三本の爪のうちひとつだけ大きな爪がある場合は、
 それを「主爪」というのだとか。
三葉 みつば。
三つ葉は、セリ科の多年草。和名の由来は葉が3つに分かれている様子から付いた名前。

大小の三つ葉を上下に組み合わせた形の蓋置。
ふつうは大きな三つ葉形と小さな三つ葉形が
背でくっついた形で交互についている。

仙叟好の片三つ葉は、半分はまるい高台になっているとか。
一閑人 いっかんじん。
井筒形の側に井戸を覗き込むような姿の人形がついた蓋置。
閑人(ひまじん)が井戸を覗いているようなので別名「井戸覗き」ともいう。

人形の代わりに龍・獅子などが付いたものもあり、
また、人形のないものは井筒(いづつ)、無閑人(むかんじん)などともいうとか。
栄螺 さざえ。
栄螺貝の内部に金箔を押したものを使ったのが最初といわれ、
のちにこれに似せて唐銅や陶磁器でつくたものを用いるようになったとか。

置きつけるときは口を上に向けて用い、
飾るときは口を下に向けて飾る。
三人形 みつにんぎょう。
三閑人・三漢人・三唐子ともいい、
三人の唐子が外向きに手をつなぎ輪になった形の蓋置。
中国では筆架・墨台で文房具の一つで、それを蓋置に見立てたものだとか。

三体の内の一体だけ姿の異なる人形があり、その人形を正面とする。
かに。
文鎮や筆架などの文房具を蓋置に見立てたものみたいです。

蟹蓋置は、東山御物にあり、
足利義政が慈照寺の庭に十三個の唐金の蟹を景として配し、
その一つを武野紹鴎が蓋置に用いたのがその始まりだとか。

続いて、裏七種蓋置について。
裏七種 足利義政が臨済禅師の銅印を蓋置に用いたのが初めみたいです。

火舎蓋置と同様に扱うが、
火舎蓋置は草庵には用いないが、
印の蓋置は草庵でも用いるとか。

自分から読む方に向けて柄杓の柄をつけ、
飾るときは印面を下にする。
惻隠 そくいん。
太鼓 輪が中ほどで膨らんでいるもの。
単に「吹貫(ふきぬき)」ともいう。

元は台子皆具の一つ。
唐銅製の円筒形のもので、
多くは精巧な地紋や透かしがある。
のちに陶磁製や竹製のものも造られる。

輪が中ほどで膨らんでいるものを「太鼓」、
輪が中ほどで細くなったものを「千切(ちぎり)」という。
井筒 いづつ。
糸巻 四本の柱を立て上下で繋いだ形。
糸を紡ぐ糸枠の形をしているためこの名があり
「糸枠(いとわく)」ともいう。
実際の糸を巻いたものや、本あるいはそれ以上のものもある。
駅鈴 円形の中央を丸く抜いた環状を横に割った形。
律令制で官命によって旅行する者に
中央官庁と地方コクガから下付した鈴のこと。

主に槍の鞘建水に用いる。
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■長建水とは
七種建水のうち、長建水(細建水)は、
「槍鞘(やりのさや)」「棒の先(ぼうのさき)」
「箪瓢(たんぴょう)」の三種で、
皆、底に蓋置を据えることができないため、
柄杓の馘を落し、柄に蓋置を掛けて運び出すそうです。

槍鞘は端午の節句に駅鈴と共に用いられることが多く、
武家茶などでも好まれているのだとか。

槍鞘は槍(武具)に、駅鈴は馬に因んだ道具のようで、
このような道具組にするそうです。

2017年9月20日水曜日

折据ってこんなの


これの動画は「小折据」です。
中に花月札を入れます。

折据(おりすえ)は、厚紙でできた折り箱で、
七事式の基本となる道具だそうです。

席中では、花月札や雪月花札などを入れて、とり回して役を決めたり、
点前を修証する札を入れたり、名乗紙を入れたりして使うようです。

また、式の前に札で役や客順を決める際に使うこともあるとか。


■折据の種類
折据には、三種類あるそうで、
それぞれ「小折据」「中折据」「大折据」というみたいです。

小折据は、一辺約7.5cmで、天地がわかるよう、口に「一」と書くそうです。
裏千家の場合、花月之式・一二三之式・仙遊之式・法麿之式・
三友之式・唱和之式などに用いるようです。

中折据は、一辺約9.0cmで、口に「関」の字を書き、雪月花之式に用いるとか。

大折据は、一辺15cmで三つ組になっていて、
口に「一」「二」「三」と書くそうです。
三つ組で茶カブキ之式に用いるようで、
「一」の大折据だけは、員茶之式・花寄之式に用いるみたいです。


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こちらは「中折据」の動画です。
中に雪月花札を入れます。

■折据の折り方
ここでは、折据の折り方を説明しようかと思います。
1.「紙づくり」 ①和紙二枚を表裏に貼り合わせて、表が柄物、裏が金の堅紙を作るそうです。
②紙を糊付けし、ガラス等の平面板に挟んで圧延をかけるようです。
 注意点:紙の表面に皺が残らないようにしましょう。
2.「採寸」 ①「ざっくりと7cm四方の折据が出来るようにしましょう。」という感じに、 大きさを決めるみたいです。
 ※細谷松尾著『香道御家流寸法書』によると、正確には「二寸二分四方」(6.666cm)なんだとか。
②中央に7cmの正方形を想定して、14cm×21cmの紙を表用と裏用の二枚切り出すようです。
 辺の縦横比が2:3となっていれば、何cmのものでもできるとのことです。
 例えば、10cm四方の折据なら20cm×30cm、4.5cm四方の折据なら9cm×13.5cmといった感じでしょうか。
3.「折り込み」 ①横を左右それぞれ3分の1の所で折り目を付けるようです。ここでは7cmずつです。(谷折り)
②左右折り目を付けた所を、中央を残して、それぞれ、更に半分に折るそうです。(山折り)
  ここまで、「3.5cm・3.5cm・7cm・3.5cm・3.5」といった感じで観音開きのようになっていればOKです。
 (これを片袖折りと言うのだとか。)
③裏返して、上と下の四つの角を三角形に折り、折り目を付けるみたいです。(谷折り)
④一度、全部開いて、出来た折り線を利用して、中心に向かって畳み込むそうです。
 中央に7cmの正方形ができるように、上下の辺を折り込んで作るとのこと。
  ここまで、14cm×3.5cmの二枚の長方形の扉が隠すように合わっていればOKです。
⑤④で出来た二枚の長方形の扉を合わせます。
  これで、柄物が全面に現れたお茶碗の形のようになっているはずです。
⑥上の紙の両端(お茶碗の左右部分)を、中央の7cmの正方形向かって折り込むようです。(谷折り)
  見た目上、14cm×3.5cmの金色の長方形+7cm×3.5の柄物の長方形が出来ていればOKです。
  金色部分:3.5cm×3.5cmの正方形が四個
  柄物部分:3.5cmの直角二等辺三角形が二個、
 ちょっと大きめの直角二等辺三角形(一辺だいたい5cmくらい)が一個
⑦真ん中の金色部分の正方形二個を、更に直角二等辺三角に折り込むそうです。(谷折り)
⑧⑦でできた裏表金色の三角形を、柄物部分に向かって折り込むみたいです。(谷折り)
 ここまでで、折据の半分ができていればOKです。最終的に糊付けしましょう。
⑨裏返して、⑦、⑧をすればOKです。
4.「仕上げ」 ①ここまでに出来た折据を十枚作るそうです。
②金の部分に漢数字で「一」から「十」まで表書きすると完成です。(綺麗にできていると良いですが・・・)

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最後は「大折据」です。

「一」「二」「三」を「一」を上にして重ね、
中に名乗紙を入れます。

名乗紙(なのりがみ)は、香道の場合、
香札を使用しない組香の時に用いる、連衆が答を記す紙で、
奉書紙を八つ切りにし、これを縦に四つに折り、
先端を90度曲げて作るようです。

現在では「手記録紙(てぎろくし)」と言うようです。

流派によっては「記紙(きがみ)」と言うそうで、
奉書紙を十六に切り、これを縦に四つに折り、
先端を完全に折り返して作るのだとか。

本香が焚き始められたときに、表紙の下半分に名前を書き入れ、
本香が焚き終わったら、紙を開いて、
左から2番目のところに答えを縦に書き込むようです。

香道の場合、名乗紙は、手記録盆に載せておき、
連衆に配布したり、回収したりするそうです。


■茶道の場合
茶道では、七事式の茶カブキ之式で用いるようです。

美濃紙を縦×横=3寸(約9cm)×2寸(約6cm)に切り、
三等分のところに上端を約1cm残して切り込みを入れるみたいです。

これを客人数分用意し、名乗紙の右端から、
茶師名と客の名前を書き入れ、
正客から順に重ね、右上端をこよりで閉じるそうです。

大折据を上から一・二・三の順に重ねた更に上に、
名乗紙を載せて持ち出すのだとか。

試み茶2服を味わい、本茶を味わった後、
これと思う茶師の名乗紙を切り取って大折据に入れ、取り回すようです。

2017年9月19日火曜日

「挽家」「挽家袋」「茶篩缶」ってこんなの



今日のテーマは、
「挽家」「挽家袋」「茶篩缶」です。
まずは、挽家から。

挽家(ひきや/ひきえ)は、主に仕覆に入れた茶入を保存する為に、
木材を轆轤で挽いて作った挽物の容器のことだそうです。

挽家は挽家袋に入れ、箱に納められるのだとか。

形は、肩衝は中次形、文琳や茄子は棗形、丸壺は丸形、瓢形は瓢形など、
中身の形に準ずるそうですが、例外も少なくないみたいです。

蓋の甲に茶入の銘が字形または額彫で記され、
まれに銘に因んだ絵が彫られたりもするそうです。
銘書が、歌銘や詩銘ならば胴側に銘書されているようです。

挽家が薄茶器となる場合もあるとか。

鉄刀木・欅・花櫚・桑・黒柿・沢栗・柚等の木地のものや、
塗物、蒔絵、独楽、竹などがあるようです。

『源流茶話』に
「棗は小壺の挽家、中次ハかたつきのひき家より見立られ候」
とあるそうです。

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挽家袋は、茶入を護るために、堅い素材で造る挽家を包む袋で、
一般に厚地の裂が用いられたみたいです。

『古今名物類聚』には、
「挽家袋 紺地錦」
とあるそうです。

現在にも、この「紺地錦の挽家袋」が伝わっているようです。
緒は、はずれ、長い使用によって文様を表わす糸も磨り減っているものの、
紺地の唐花を幾何学文様に表わした蜀江錦だそうです。
一部の文様には、金糸を使用しているとか。

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続いて、こちらは茶篩缶です。

必ずではないのですが、通常、抹茶は篩で漉します。
これは、抹茶が、非常に静電気を帯びやすく、よくダマになって、
舌の上に苦く残こる場合があるためみたいです。

以前は、平らな茶漉しの上に山盛りに持った抹茶を、茶さじでちょっとずつ漉していたのですが、
最近は、既製品として「振るだけ」とか「ハンドル式」とかが販売されているようです。
もちろん、普通の茶漉し(丸いざる型)に抹茶を入れて、振っても漉せます。

「近藤さんの茶篩缶」を宣伝するわけではないのですが、
これは、茶ふるい缶・網・ふるい金具×3・スプーンがセットで、
蓋をして、左右水平に何回か振るだけで、濃茶一客分がいっぺんに漉せるそうです。
定価で4,000円程度からあるみたいです。

「ハンドル式」は、ケーキの粉を漉すのと同じ要領で漉せる品で、
抹茶飛散防止キャップ(蓋)が付いているそうです。
静電気が起きにくく、すばやくふわっと美味しい抹茶ができるのだとか。
定価は3,500円程度みたいです。

十種香札ってこんなの


十種香札は、香道具を応用したもので、
表面に菊・桐・松・梅・桜・柳・竹・萩・水仙・牡丹などの絵、
それぞれの花毎の小箱(札箱)の裏面に、
月一・月二・月三・花一・花二・花三・一・二・三と書かれた札が1枚ずつと、
客(またはウ)と書かれた札が3枚、合計12枚の札が1セットになっているそうです。

札の1セットは、札箱と呼ばれる小箱(10組ある)に納められ、
外箱に全て収まるようになっているみたいです。


■十種香札を使用する七事式
表千家の場合は、少なくとも七事式の「数茶」と「一二三」で使用するようです。

裏千家の場合は、以下の表で一覧にしてみました。
七事式道具備考
一二三之式長盆・札箱・小折据・掛物・花入・
通常の点前道具・
花月札(月・花・一・二・三)
修証即不無染汚不得
5人で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。
法麿之式長盆・札箱・小折据・掛物・花入・花台セット・
通常の点前道具・炭手前道具・
花月札(月・花・一・二・三)
一二三之式を基に十二代又みょう斎が考案した。
5人で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。
員茶之式大折据・掛物・花入・干菓子器・莨盆セット・
通常の点前道具
役を決めるときのみ中折据・雪月花札
老倒疎慵無日 閑眠高臥対青山
7人以上で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。
一回行うことを「一扁という」
花寄之式大折据・掛物・花入・花台セットなど
役を決めるときのみ中折据・雪月花札
7人以上で行う。八畳を基本とする。風炉・炉とも行う。
十一代玄々斎が復興した形式のもの。
今日庵では、利休忌・宗旦忌・精中忌・円能忌・無限忌に手向けとして参列者の代表で行う。
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ここでは、十種香札の使い方(裏千家)について簡単に説明しようかと思います。

一二三之式・法麿之式の場合、
十種香札を使って点前の修証を行い、
各人が小折据の中に札を入れる、
といった使い方をするようです。

員茶之式・花寄之式の場合、
大折据に十種香札を入れて取り回し、
札元(ふだもと)が読み上げた絵柄の札の人から、
茶をいだだき、点前をしたり、花を入れたりするそうです。

大折据に十種香札を入れて、員茶之式・花寄之式に用いる時は、
同じ絵柄の「一」の札1枚、
「客」の札1枚の2枚ずつを折据に入れるみたいです。

上段に「一」の札、下段に「客」の札を、
文字を上にして客の人数分だけ並べるとか。

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ここでは「黒檀」について説明しようかと思います。


■植物としての黒檀
黒檀は、カキノキ科カキノキ属の熱帯性常緑高木で、
インドやスリランカなどの、
南アジアからアフリカに広く分布しているそうです。

樹高25m、幹の直径1m以上になるようですが、
生育がきわめて遅いみたいです。
幹は平滑で黒褐色だとか。

果実は直径2cmくらいで、食用になり、
カキの実を小さくしたような感じだそうです。


■利用方法
黒檀の木材は、銘木として古くからよく知られるようです。

製品の素材に用いられる、
心材の材質の特徴としては、
漆黒の色合いで緻密・重厚・堅固である点が挙げられるとか。

細工用の木材として、
家具・仏壇・仏具・建材・楽器・ブラシの柄、
などに使用されるようです。

特にピアノの黒鍵、ヴァイオリンなど弦楽器の指板、
カスタネット(打楽器)やチェスの駒、
などに用いられているそうです。


■木材としての黒檀
唐木3大銘木の一つで、
以下のように分類されているとか。

本黒檀:全体が漆黒色
縞黒檀:黒色と紅褐色
青黒檀:青緑色を帯びた黒色
斑入黒檀:黒色と黄褐色

極めて重く硬い木で、
木目はほとんど見えないようです。
切削は極めて困難とされるみたいです。

貴人台と天目台ってこんなの



貴人台は、貴人に茶を供する時に使う木地の台で、今では天目台の一種とされているようです。

貴人とは、官位の高い人のことを言うようです。
日本でも戦前までは宮中を中心にして官位が定まっていて、明治憲法施行までは、
一位から八位まであり、それに正、従があって十六階の階級があったみたいです。

新憲法にも、位階令があるそうですが、華族の廃止によって、
新たな叙位は追賜や昇叙だけになっているそうです。
ちなみに、第二次世界大戦以降は故人にのみ与えられるようになったとのこと。

現在、茶の湯では貴人と尊称する人は、皇族の方々の他に、
世の中のために功績があって勲位を授与された人達のことをいうようです。

貴人が座る畳を「貴人畳」を呼んで、神聖な場と認識するそうです。

「東貴人且座」の読み方は、流派で違うみたいで
表千家:とう・きにん・さざ
裏千家:とう・きにん・しゃざ
となるようです。

「貴人清次」の「清」は貴人のこと、「次」がお伴のことをさすそうです。
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天目茶碗の載る部分を酸漿(ほおずき)、
それを受ける幅の広い皿上の部分を羽、
へり・下部を土居・高台というそうです。

鎌倉時代、天目山にある禅刹へ日本から多くの僧が留学し、
帰国に際して天目茶碗とともに招来されたようです。

黒塗・堆朱・倶利・存星・青貝入・蒟醤などがあるみたいです。
天目台の種類には、尼崎台・七つ台・貝の台・輪花台・
蚊龍の台・竹の台・紅龍台・常黒台などがあるようです。
のちに、貴人に茶を供する時に使う木地の台(貴人台)も
天目台と称するようになるみたいです。

「尼崎台」の名の由来は、以下の話からみたいです。
「1532年、堺の天王寺屋宗柏が渡唐の柴野道堪に托し、天目台20台をもとめた。
道堪は10台をもたらして尼崎に帰朝したが、暴風雨により1台を失して9台が到来したという。」
黒漆塗りで、内側に朱で描いたむかでの印が朱色で描かれていて、
「むかで台」あるいは「印の台」と呼ばれたそうです。

「輪花台」として、屈輸輪花天目台(大英博物館蔵)の説明をします。
屈輸輪花天目台は、現在知られる彫漆の天目台の中で最も古いものだそうです。
六弁の輪花形につくられた天目台で、
かなり大きめの酸漿、ゆったりと広がった羽、
丈を低くおさえ、裾広がりにして安定感を与えた高台をもっているようです。

漆層は黒・朱・黄・緑の四種で、全部で十層を数えるみたいです。
器面のすべてに屈輪文があるのですが、
一般にいわれる屈輪とは違って、ハート形の幾何風の文様だそうです。

天目台には唐物だけではなく、和物もあるようです。(輪島塗天目台とか。)

灰匙(灰杓子)ってこんなの



灰匙には、炉用・風炉用の二種類があるとのこと。
風炉用は小ぶりで柄が長く柄に竹の皮を巻いたもの、
炉用は大ぶりで桑の木の柄がついたものを用いるようです。
また、利休形は桑柄で匙が柄に差込みになっていて、少庵好は鋲打ち、元伯好みは楽焼だそうです。

この灰匙、久須見疎安著『茶話指月集』には、
「始めは竹に土器などをさして使ってたけど、 千道安 が金属を使うようになった。
これを見た 千利休 は、最初は飯杓子のようでおかしいよと笑ったけど、
後にはこの金属製を使うようになった。」
とあるそうです。

この 千道安 、灰匙の他にも、
小座敷に突上窓(天窓)をあけたり、
四畳半座敷の床を四尺三寸に縮めたり、
客座・点前座の間に中柱を立て仕切壁を付けて火炉口をあける道安囲いを構成したり、
塗り蓋を拭いてから茶巾をおく手前を考案したり、
と、かなり斬新な考えの持ち主だったみたいです。

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風炉の灰をする際、炭点前の時に使用する小判型の他、一つ笹葉のものを用いるそうです。

灰器の場合、通常、笹葉は用いないようです。
灰をする際、前瓦と五徳の間や、小型の風炉で五徳の隅と端との間の狭いところなど
小判型の大きいのが通らない場合に使用するようです。

理由は、灰匙の裏側がハゲてきたり、柄の竹皮巻が傷んで汚くなって、
灰器に使用するには見苦しくなるからみたいです。

灰をする時の灰匙は、裏底の灰の当たる面が全体に平たく平面であれば、使い勝手が良いものですが、
裏底中心に高く山になった灰匙は、とても灰のしにくいものだと思いませんか。

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遠山だけは、使う風炉の位置で山と谷が変わるそうですが、
灰の作り方などは、各講習会などにおまかせするとして、
遠山灰について、その他の説明をしようかと思います。

この遠山灰は、豊臣秀吉が有馬へ入湯の際に、
この地の景勝を賞でられ、お供の千利休に、
山谷の姿を風炉の灰に写し作るよう命じたのが、
そのはじまりだそうです。

記録には、天正18年10月とあるみたいです。

灰形の山は、小屋山・落葉山・蜂尾山・切地山の
四山から写したもののようです。

例えば、落葉山の場合は、
南北に連なる有馬三山の北端に位置しているみたいで、
標高532.99mなのだそうです。
有馬温泉からは、南西方向に数100m進んだところにあるようです。

落葉山は温泉中高の祖である仁西上人が、
神様が投げた木の葉が落ちた地に、
温泉を掘りあてたとされたことから名づけられたのだとか。

頂上には落葉山妙見寺があるそうです。

現在、落葉山・灰形山・湯槽谷山の三つを合わせて、
有馬三山というようで、六甲山のハイキング案内書には、
「超健脚向きである」と記載されているのだとか。

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風炉・炉の別があり、風炉には細身の小形で、
柄が竹皮で巻かれているものを用いるそうです。
素材は砂張・南鐐・素銅・煮黒目・青銅などのほか、
大判・小判を灰匙に造ったり、朝鮮の食匙の転用も見られるようです。

炉用大振りで、火気の伝導を防ぐために、
桑柄のものが多く見られるそうですが、
風炉用と一双になっているものには、
柄が竹皮巻きのものもあるみたいです。

他に陶器製や、匙の表に象嵌を施したものもあるようで、
好み物もあるとか。

陶器の灰匙は、釣釜や透木釜のように、五徳を使わない時や、
趣向によっては大炉の炭手前に用いることもあるそうです。

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をすくったり、蒔いたり、灰型を作るのに用いる灰匙。
利休以前は、土器を用いたりしたそうです。

利休時代に、はじめて現今のような鋳物が工夫されたのだとか。

風炉・炉用の別は、匙形の大小・柄の作り方などにより、
風炉用は小型で、竹の皮・梅皮・糸巻などで柄が巻かれているみたいです。
炉用は大型で、桑・梅などの木の柄をつけたものが多いとか。

材料としては、素銅(すどう)、鉄、青銅などが主で、
陶器では、楽なども用いられるそうです。

風炉の灰形用には、小判形のほかに、笹葉形が、
細い狭い場所に用いるのに便利なのだとか。

御物袋ってこんなの

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御物袋(ごもつぶくろ)は、茶器を保護し、
破損を防ぐために、この袋に入れて箱にしまうそうです。

袋は、白・紫・朱などの無地の縮緬(ちりめん)や
羽二重などでの布を打ち合わせにして、
中に薄綿が入った長緒のもののようです。

緒を締めると茶入が中に包まるようになるとか。
中次・雪吹の類は大津袋にいれるみたいです。
御物袋も大津袋も、基本は保存用の袋ということだそうです。

裏千家の場合、
小習い十六カ条「茶碗荘」を行う時に、
初座の床に御物袋を入れた茶碗が
帛紗にのせて荘られるみたいです。

床の中心には置かず、上座か下座に帛紗を敷き、
その上に荘って置くのだとか。
床の中心には、格別の品の他は荘らないそうです。

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御物袋に入れる茶碗は、
目上の人、又は客からいただいた茶碗を
用いる場合に使うそうです。

扱い方は、両手で古帛紗ごと持ち、
茶をいただくときは、茶碗のみ右向こう、左手前と持って古帛紗の上でまわし、
古帛紗ごと左掌にのせていただくそうです。

茶碗を返すときは、古帛紗ごと右向こう、左手前と持ってまわし、正面を正すとか。

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卒業祝いや結婚祝い、お茶名を取った時などに、
茶碗を贈るようです。

茶碗荘向きの茶碗だと、
例えば、<a href="http://shoundo.jpn.com/tool/chawan.html#0103">杉田祥平の仁清宝尽絵茶碗</a>などがあります。

野々村仁清(ののむらにんせい)は、
丹波国桑田郡「野々村」生まれで「仁和寺」の門前に御室窯いて作陶した「清右衛門」のことで、
江戸初期の京焼の名工だそうです。

仁清は近代的な意味での「作家」「芸術家」としての意識をもった最初期の陶工で、
当時としてはめずらしく、仁清は自分の作品に「仁清」の印を捺し、
これが自分の作品であることを宣言したそうです。
特に轆轤(ろくろ)の技に優れたと言われ、
「色絵雉香炉」や「法螺貝形香炉」のような彫塑的な作品にも優れていたようです。
現存する仁清作の茶壺は、立体的な器面という画面を生かし、
金彩・銀彩を交えた色絵で華麗な絵画的装飾を施しているとか。

宝尽くしは中国の「八宝」思想に由来し、日本では室町時代に始まったそうです。
この八宝は「法螺・法輪・宝傘・宝瓶・白・蓮花・金魚・盤長」のことみたいです。
日本では「如意宝珠・宝やく・打出の小槌・金嚢・隠蓑・隠笠・丁字・花輪違・金函」などが、
代表的な文様で、時代・地方により多少の違いがあるようです。
他にも、七宝(しちほう)といって、
「金・銀・瑠璃・真珠・シャコ・瑪瑙・マイ瑰」(法華経)を指すそうです。
(般若経や無量寿経では一部違うみたいです。)

筒茶碗と平茶碗ってこんなの



■筒茶碗
筒茶碗を使った点前の特徴は、
茶筅通しと茶巾の使い方と、
左横に立てかけて茶杓・茶筅を仕込むことでしょうか。

茶筅通しの場合は、
お茶を点てるお仕舞いの茶筅通しの時、
茶碗をかたむけるそうです。

茶碗を拭くときも、
茶巾を人差し指と中指とではさむようにして、まず底を拭き、
茶碗のふちにかけて、いつものように三度半拭いたあと、
茶巾を茶碗からはなさず、下において、
茶巾をはなして、上部をすこし折って、釜の蓋の上に置くみたいです。

これは、いつもの茶碗の拭き方のように、縁から先に拭くと、
底を拭くとき、指や手先が、茶碗の内部にふれるからなんだそうです。

しぼり茶巾という扱いも特徴で、
茶巾を水屋でしぼったままの姿で茶碗に入れ、
釜の蓋をあけると、それを横一文字に蓋の上に仮置きして、
茶碗に湯を入れ、茶筅を茶碗に入れて、そのままにしておき、
茶巾をとって、いつものようにたたみ、蓋の上に置き、
茶筅通しをするそうです。

これは、筒茶碗は寒い時に使用するので、
茶巾をたたむあいだ、湯が入っているから、
茶碗が少しでも温まるのだとか。

利休百首22に
「筒茶碗深き底よりふき上がり 重ねて内へ手をやらぬもの」
とあるようです。

■平茶碗
平茶碗でお茶を点てると、
通常の茶碗に比べて空気に触れる面が広い為、
抹茶が冷めやすいみたいです。
そのため、夏の季節によく使われるようです。


■洗い茶巾
点前の中に「洗い茶巾」という、
酷暑の頃に行う薄茶点前の趣向があり、
そこでも、平茶碗を使い、
涼感を演出するようです。

平茶碗に、水を七分目ほど入れ、
茶巾の端と端との対角線を取って二つに折り、
その端を茶碗の右方に少し出して、
その上に茶筅を仕組むのだとか。


■例えばこんな平茶碗①
以下、写真がないので、説明だけになりますが、
「古唐津平茶碗」と、楽焼の「黒平茶碗 銘:落栗」について、
ちょっと説明しようかと思います。

「古唐津平茶碗」は、高さ5.2cm、口径14.3cmで、
17世紀初期の作品だそうです。

口縁部が、わずかに端反った平茶碗で、
高台は小さく竹の節で、
高台内は丸鉋で「の」の字状に深く削られているのだとか。

胴半ばまで長石釉が厚くかかり、
釉が一本高台際まで流れて景色となっているみたいです。

釉は酸化焔焼成により、赤褐色に発色しているそうです。


■例えばこんな平茶碗②
一入作「黒平茶碗 銘:落栗」は、
高さ7.0cm、口径13.4cmで、17世紀の作品みたいです。

一入は、京都の楽家四代で、朱釉(しゅゆう)を得意とし、
小ぶりの妙品に味わいをだしたそうです。

胴の半ばを締めた平茶碗で、
高台も全体ん委比べてかなり小振りで、
丸い畳付けや高台内の兜巾などに、
典型的な一入の作りが見られるようです。

釉は総体にかけられ、内側・外側には、
一入が得意とした朱釉が現われ、
おとなしい作風に、華やかさを添えているみたいです。

なお、骨董品の中でも、
特にファンの多い平茶碗の場合は、
多少傷がついてたり、箱がなくても、
価値がある場合もあるとか。

茶箱ってこんなの



点前道具一式を収納して持ち運びするための箱で、
籠形式の場合は茶籠(ちゃかご)と呼ぶそうです。

茶箱の素材は、木地・塗り物・蒟醤(きんま)など、
茶籠の素材は、籐・竹などを編んだもののようです。
茶籠の場合は、中に入れる道具を保護するため、
内張りか漆塗を施して用いるのだとか。

茶箱は、利休の頃には既にあったようで、表千家には、
利休所持の蒟醤(きんま)の茶箱が伝わっているみたいです。

久保長闇堂著『長闇堂記』に、
「茶弁当はと云ふは、是も利休初めての作なり。」
とあるそうです。

この「茶弁当」というのは、
桐材の箱に木目が見える様に黒漆を薄く塗ったものなんだとか。

江戸時代後半には、裏千家十一代の玄々斎が、
利休形の茶箱を元に茶箱点前を創案し、
玄々斎好の茶箱を作成しているみたいです。

■茶箱の点前
立花実山著『南方録』に以下の話があるようです。

茶箱の点前には二種類あります。
一つは野点の時に茶道具を組み入れておく茶箱で、
これは野点の扱いですみます。

もう一つは、人にお茶を贈る時に持参する茶箱(茶通箱)で、
前もって人に持たせてやることもあります。

中に濃茶と薄茶の両方を入れるか、
濃茶だけにするか、あるいは濃茶二種類にするか、
それは贈る人の気持ちしだいです。

濃茶を秘蔵の茶入に入れることもあれば、
唐物茶入に入れることもあり、
これも気持ちしだいです。

薄茶は棗や中次に入れます。
茶箱は桐製で、蓋には桟を打ちます。
緒はつけずに、白い紙縒で箱の真ん中をくくって封をします。

それには封の三刀という秘事があります。
茶箱の大小は茶入によって異なります。

茶箱の取り扱いや封の切り方は、決してもらさぬこと。


■茶箱の道具一覧
茶箱の道具としては、一般的に、以下のものがあるそうです。
道具名備考
茶巾筒 他の道具の水濡れを避けるために茶巾を収納する。
箱形のものもある。網袋に入れる場合がある。
茶巾筒に関する詳細はこちらから。
茶筅筒 茶筅を安定させるため、
また他の道具の水濡れを避けるために筒に収納する。
網袋に入れる場合がある。
茶筅筒に関する詳細はこちらから。
振出
振出に関する詳細はこちらから。

茶碗
茶碗に関する詳細はこちらから。

茶器
薄茶器に関する詳細はこちらから。

金輪寺に関する詳細はこちらから。

棗に関する詳細はこちらから。

茶入に関する詳細はこちらから。

茶杓
茶杓に関する詳細はこちらから。

茶筅
茶筅に関する詳細はこちらから。

茶巾
茶巾に関する詳細はこちらから。

香合
点前で使用しない場合には省略される。
香合に関する詳細はこちらから。

建水
点前の際は茶箱には納めないが、
茶箱一式として組み込まれているものがある。
建水に関する詳細はこちらから。

また、上記以外にも、器据和敬板の他、
三ッ組仕覆小羽箒火箸鶯針掛子など、
点前により様々なものが入るようです。

茶巾台(茶巾落とし)ってこんなの



茶巾台(円筒形で半蓋)は、濃茶の席で、
上に乗っている小茶巾で、茶碗の飲み口をく拭くために、
亭主から出される器だそうです。

落とし込みの部分に木地板がはめられ、
そこに茶巾をのせて使用済みのものを、
茶巾台の口から中で落とすようにして使うようです。
末客は茶道口の方に返すのだとか。

形は、淡々斎好が溜塗の曲、
又妙斎好・円能斎好が陶器の壷の上に皿を重ねたもの、
みたいです。

■東陽紡につかまつる
『茶湯古事談』に「回し飲み」に関する話があるそうです。

昔は濃茶を一人一服ずつ点てていたのを、
それでは時間がかかって、主客ともに退屈するからと、
利休が吸茶(回し飲み)にしはじめたそうです。

京都の真如堂に東陽紡という僧がいました。
茶の湯を好んで利休の弟子となり、
人々からは一番の侘び数寄者であると、褒められていました。

掛物には尊円親王染筆の「南無阿弥陀仏」の名号を、
利休好みで紙表具にしたものを一幅持ち、
茶碗は伊勢天目一碗だけでしたが、
生涯、炉の火を絶やしませんでした。

あるとき、東陽紡は豊臣秀次の近臣を招いて茶会を催しました。
薄茶を点てて、
「皆さんはお忙しい方々ですから、
お手間を取らせないよう薄茶を大服にてお点てしましたので、
回し飲みにしてください」
と出しました。
その心配りは、時に応じてよろしいと利休も賞美し、
世間の人々も褒めました。

そのことから当時は、薄茶であっても回し飲みにすることが流行し、
そのため大服に点てることを彼の名をとって
「東陽紡につかまつる」などといっていました。

■前茶のおもあい
回し飲みといえば、夜咄の前茶でしょうか。
客側が、
「お正客さま以外は、おもあいにしていただきたいのですが、
いかがですか?」
と言うそうです。

亭主側が
「刻限がございますので、
勝手ながら、おもあいにさせていただきとうございます。」
と答えるのだとか。

前茶は、初座の挨拶のあと、とりあえず寒さをしのぐために、
水次や水屋道具で薄茶を点てることを言うそうで、
寄付で玉子酒・甘酒・生姜湯などを出すため、
お菓子は出さないのだそうです。

■文献
『茶湯古事談』に、
「或時、秀次公の近臣を請し茶の湯せしか、薄茶たて様か、
各御隙なしの方々に候ヘハ薄茶に手間とらす大服にたてゝ進すへき程に、
吸茶になされ侯へとたて出し也、
此作意節に応して宜きと利休も称美し、
世人もほめて、其比ハ薄茶を吸茶にする事はやり、
彼か名をとりて、大服にたつる事を東陽に仕るなとゝいひしとなん」
とあるそうです。

『茶道筌蹄』に
「夜咄 むかしはホ時(申の刻)より露地入せし故、
中立に露地小坐敷とも火を入れる也、
昼、夜咄とも、いにしへの事にて、
当時は夜咄も暮六ツ時に露地入する也、
但し客入込て、炭をせずに前茶点じ、
跡にて炭をいたし、水を張、食事を出す事」
とあるそうです。

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大寄せの御濃茶席などに、
濡らした小茶巾や紙小茶巾などを、
必要数並べて使用する茶巾落し。

陶器製のものは、又妙斎好や円能斎好だそうです。

表千家では、懐紙で茶碗を清めるため、
小茶巾は用いられないようです。

お茶席には大きく分けて二種類あり
懐石・濃茶・薄茶をもてなす正式な茶会である「茶事」と、
多くの客を一同に招き、
菓子と薄茶(または濃茶)のみをもてなす「大寄せ」があるようです。

この茶巾落しは「裏千家の濃茶の大寄せ茶会」の場合に、
使用するみたいです。

硯箱ってこんなの



硯箱は、硯の他に筆・墨・水滴・小刀・尺・暦その他を納めることもあるそうです。

種類として、「平硯箱」「重硯箱」「浅硯箱」があるみたいです。、
裏梨子地・表蒔絵・螺鈿・描金などが施されることもあり、
文台と連作になる場合もあるようです。

日本では平安時代から作られ、使用されるようになったようです。
硯箱の黄金時代は室町時代だそうで、平安・鎌倉時代と比べ、
室町時代に作られた硯箱は数多く現代に伝わっているのだとか。

室町時代に制作された硯箱には『古今和歌集』や『源氏物語』といった
日本の文学が蒔絵を駆使して表現されているそうです。
同時代の漆工芸品と比べても質が高く、高い評価を得ている作品が多くあるようです。
たとえば、切手に「第3次国宝1集 八橋蒔絵螺鈿硯箱」などがありますよね。

国宝、重要文化財の一部を挙げると以下のようなものがあるみたいです。

国宝
・舟橋蒔絵硯箱(17世紀・東京国立博物館蔵)
・八橋蒔絵螺鈿硯箱:尾形光琳作(18世紀・東京国立博物館蔵)
・胡蝶蒔絵掛硯箱(17世紀・徳川美術館蔵)

重要文化財
・嵯峨山蒔絵硯箱(15~16世紀・根津身術館蔵)
・男山蒔絵硯箱(15世紀・東京国立博物館蔵)
・塩山蒔絵硯箱(15世紀・京都国立博物館蔵)
・塩山蒔絵硯箱:木製漆塗(15世紀・東京国立博物館蔵)
・蓬莱山蒔絵硯箱(15世紀・京都国立博物館蔵)
・砧蒔絵硯箱(16世紀・東京国立博物館蔵)
・初瀬山蒔絵硯箱(16世紀・東京国立博物館蔵)
・柴垣蔦蒔絵硯箱:古満休意作(17世紀・東京国立博物館蔵)
・蔦細道蒔絵文台硯箱:田付長兵衛作(17世紀・東京国立博物館蔵)
・御所車蒔絵硯箱(17世紀・東京国立博物館蔵)
・芦舟蒔絵硯箱:伝本阿弥光悦作(17世紀・東京国立博物館蔵)
・舞楽蒔絵硯箱:本阿弥光悦作(17世紀・東京国立博物館蔵)
・比良山蒔絵硯箱:塩見政誠作(18世紀・東京国立博物館蔵)

伊丹の小西酒造に伝わる茶道資料『七事 凌雲帳 風の巻』(表千家)に
「茶かぶきに必要なる道具は、茶かぶき棗、棗盆(なつめぼん)、
緋大袱紗(ひおほふくさ)、看板板(かんばんいた)、折居、名乘札、
小奉書(こぼうしよう)一帖(ぢやう)硯箱等なり。」
と記載されているようです。

裏千家でも、唱和之式で
「亭主が正客に重硯箱を運び出し、干菓子器を水屋に引いて、末席に座り、
重硯箱を回し、連客それぞれ墨をすり、懐中した短冊を出して、
自分が最初に生けた花にちなんで和歌をしたためる。」
といった所作があるようです。

紫式部著『源氏物語 野分』より
「紙一巻(ひとまき)、御硯(すずり)の蓋(ふた)にとりおろし奉れば」

意味は、
「紙一巻を御硯箱のふたに取って下に置き(夕霧に)さしあげると。」
となるようです。

この前後の文章は、以下のようになっているみたいです。
夕霧が
「良いものでなくて構わないんですが、
手紙が書ける紙がありませんか。
それとあなたたちの硯を貸していただけませんか」
と頼むと、明石の姫の御厨子から紙一巻を侍女たちが、
硯箱の蓋に載せて差し出したものだから、
「いや、こんな良いもので無くて良いのに」
と言ったけれど、明石の姫の母の身分を思えば、
何も遠慮することはないと気づき、
気安く手紙を書き始めた。

吉田兼好著『徒然草』の序段に、
「つれぐなるまゝに、日ぐらし硯にむかひて、
心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、
あやしうこそものぐるほしけれ。」
とあるようです。

盃台(渡盞/後盤)ってこんなの



盃(引盃)と盃台の動画です。
盃台から盃を取る場合、下から順に取ります。

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引盃(ひきさかずき)は、
茶事にだされる懐石に用いる、
酒を飲むための塗物の盃のことだそうです。

客ひとりひとりが一枚ずつ引くので、
この名があるようです。

引盃は、古田織部が椀の蓋で酒を飲んでいるのを見て、
利休が好んだのだとか。

五客を一組とするようですが、
実際は客数だけを積み重ね盃台に載せて、
銚子と共に席中に持ち出すそうです。


■引盃の形
一般的には、朱塗で無地の利休形が用いられるとか。

昔のものは大きく、
利休形の大や、藪内好みなどでは、
一枚に五勺以上も入るようです。

初期のものは黒塗で、のちに朱塗となったみたいで、
朱刷毛目、朱掻合、蒔絵などのものもあるとか。


■千鳥の盃
酒と肴が末客まで行き渡ったところで、
亭主は正客のところへ戻り、
「お流れを」と言って自分も盃を所望するようです。

その後は亭主と客が1つの盃で酒を注ぎ合うのだとか。

亭主は正客の盃を拝借するのが通例みたいです。

正客は自分の盃を懐紙で清め、亭主はその盃を受け取り、
そこに次客が酒を注ぐそうです。

その次は、同じ盃を次客に渡し、
亭主が次客に酒を注ぐようです。

以下、末客が亭主に、亭主が末客に酒を注ぎ合った後、
亭主は正客に盃を返し、ふたたび酒を注ぐのだとか。

このように、盃が正客から亭主、
亭主から次客、次客から亭主、
と回ることから、これを「千鳥の盃」と称するそうです。


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盃台(さかずきだい/はいだい)は、茶事にだされる懐石に用いる、
引盃を載せる台のことみたいです。

連客の数だけの引盃を積み重ねて載せ、
銚子と共に席中に持ち出すようです。

盃一枚用の場合もあるとか。
これは、亭主が持ち出す別盃や、
珍盃を載せて出すものみたいですが、
あまり使われることはなそうです。

大小複数の盃を一組にした盃を、
組盃(重ね盃)というようです。

一般的なものは三枚一組の三ツ組盃で、
盃台が付けられている場合が多いとか。


■盃台の形状
盃台は、形状は円形で高台が付き、
天目台に似ているそうですが、
高台には底があり、酸漿はごく低いことも、
全然ないこともあるとか。

高台内に底があるのは、
引盃の一番上に水を入れる向きがあり、
最後にそれを入れたり、
酒の「したみ」を入れるためだそうです。


■盃台の材質
盃と共塗か、盃が朱塗のときは、
多くは、黒塗を用いるようです。

一般的に用いられているのは、
黒塗で無地の利休形みたいです。

他に、溜塗や桑木地・黒楽・
青楽金入のものもあるそうで、
縁の形も円のほかに輪花・糸巻などもあるとか。

陶磁器の発達にともない、
やきものの盃台が現れるようになったそうです。

七種蓋置ってこんなの


動画のこれは、七種蓋置です。

左手前から、「三つ葉」「一閑人」「五徳」
左手奥から、「栄螺」「蟹」「三人形」「火舎」
となります。

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七種蓋置に関しては、
『茶湯古事談』に
「近代七ツのふた置といふハ、三ツ葉、蟹、
さゝひ、ほや香炉、三人坊主、五徳、わ、此等也となん 」
とあるそうです。

それぞれの代表的な文献の記述を見てみると以下のようになるようです。

<火舎蓋置>

『南方録』
穂屋 天子四方拝の時、
用玉ふ香爐といへり、
さまによりて蓋置に用る時も、
殊外賞翫の一ツ物なり、
草庵に用たる例なし、
袋棚以上に用、
手前の時、賞翫の置所等秘事口傳

『茶道筌蹄』
火屋 ホヤ香爐をかり用ゆ

『源流茶話』
「ほや香炉と申候ハ、
いにしへ唐物宝形つくりえ香炉のふたを翻し、
釜のふた置ニ見たて、袋をかけ、真の具に被定候、
ほやとハ蓋宝形つくりなれは也」

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<五徳蓋置>

『南方録』
火卓 爪を上にしても、
又下にしても用、
火卓掛の炉、又は風炉に相応せず、
釣釜によし

『茶道筌蹄』
五徳 開山五徳と云は紹鴎所持、
台子は切懸釜ゆへ、いにしへは五徳を多く用ゆ

『貞要集』
「総而蓋置を隠架と云也、此心は、水覆の内に入、
台子に置候は、架に隠すと云儀なり、
それを五徳の蓋置計を隠架と云は誤也」

『槐記』
「今の人五徳の蓋置の名を、カクレガと云と覚へたるは大なる僻事なり、
それは五徳のふたおきと云ふ也、
台子の七かざりに風炉釜水指を始として皆カネのものを用る、
柄杓は柄杓立あり茶筌は茶筌のせありて、
蓋置ばかりは飾り付る処なし、
もろもろ荘り付けて亭主の持ち出るものはコボシばかりなり、
夫故蓋置コボシの内へ入込て出るをカクレガと云、
コボシの内へ入て見へざりければなり、
乃至、カネの蓋置をコボシへくみたるをカクレガと云からしてカネのものをカクレガと云、
五徳の名にあらず」

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<一閑人蓋置>

『茶道筌蹄』
青磁一閑人 元来香炉なり、
仙叟箱書付には青磁香炉一閑人とあり、
何れの時よりかフタ置となる

同無閑人 人形のなきを云ふ

赤絵の獅子 一閑人のごとく、人形の所が獅子になる也

『茶道望月集』
惻隠の蓋置は、一閑人共云、是を棚に置時は、
人形を前へ見て置、堵炉の時は人形を向へ見也、
又風炉の時炉にても向点の時は、人形を前へ見て柄杓を掛る、
釜の蓋を置時は、柄杓を取左へ渡し、右手にて横になして、
人形の面を我左の方へ会釈置、夫へ蓋を置事能、
幾度も柄杓置時は堅に取直し置、蓋は兎角横になして置也
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<栄螺蓋置>

『茶道筌蹄』
大は真鍮、千家にては用ひず、小は唐金、利休所持

---------------
<三人形蓋置>

『茶道筌蹄』
唐子三人手を組合せたる形なり
利休所持、原叟書付あり、和物也、冬木氏伝来

『茶道望月集』
三漢人の蓋置迚唐人三人並びたる形あり、
其中に羽織着たる人形有もの也、
夫を表として、四畳半炉にては真向になし、
風炉の向点の炉は前へなして置也


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<蟹蓋置>

『茶道筌蹄』
筆架をかり用ゆ

『雲集蔵帳』
「大名物 蟹蓋置 東山御物 紹鴎 利休 小堀 土屋 酒井雅楽頭」

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<三葉蓋置>
特に参考文献なし。

千鳥板ってこんなの



動画は、千鳥板です。亀甲型は裏側も見せています。

千鳥板(ちどりいた)は、
裏千家では、
貴人清次で千鳥茶巾を載せるための、
炉縁の角を切った形(二等辺三角形)、
又は、平亀甲形の板で、
懐中して、席入りするようです。

材質は、桐・杉などがあるみたいです。

「今日」と焼印の入ったものや、
「いちょう」のマークの入ったものもあるそうです。

平亀甲形で、「いちょう」マークのあるものは、
裏に鋲が打ち込んであるものもあるようです。

千鳥板の別称として、鱗板と言う場合もあるが、
鱗板自体は、茶室の床脇に設ける、
三角形の板を指すこともあるため、
注意が必要である。
この鱗板は、織田有楽の「如庵」にあるとか。

千鳥茶巾は、遠州流では通常に用いるみたいです。

千鳥板は、貴人清次で、お供の人ようの茶巾を載せる台で、
千鳥茶巾を載せる。

なお、貴人に出す茶碗・茶筅・茶巾は、別に使われ、
茶巾も通常の折り方で、千鳥板ではなく、
釜の蓋の上に載せる。

------------
千鳥板は、炉の貴人清次の点前で用いるそうです。

風炉では用いないとか。

千鳥板は、千鳥茶巾を載せるための台みたいです。

千鳥板は、十一世玄々斎の草案になるもので、
炉縁の角を切られた形と言われているようです。

千鳥板の上には、千鳥茶巾が使われるそうです。

貴人清次の点前では、貴人は白竹の茶筅を使いますが、
お次は煤竹の数穂を使うみたいです。

千鳥板は、二寸五分の二等辺三角形の板だとか。

畳付けのしるしとして、ツボツボ・松葉などの、
焼き印が押してあり、体の向こう側向きに懐中して、
しるしのある方が、畳に付く約束になっているそうです。

歴代宗匠の花押があれば、
畳の上向きに置くみたいです。

懐中も逆向きだとか。

貴人清次の「清」という字が「貴人」を指し、
「次」という字が「御伴」を指している、
と言われているようです。

また、棚は更好棚を使わなくても良いそうで、
二重だな、または、棚なしでも良いとか。


■貴人と御伴の違い
茶碗と茶筅と茶巾を別にしているそうです。

また、お菓子は、貴人の場合、
高盃に、紙を敷いてお出しするようです。


■千鳥板の置く場所
「畳目、2つ目に炉縁の線に沿って置く」そうです。

これでは、分かりにくいかったので、
以下に、自分なりにまとめてみました。

本勝手点前で、
炉の亭主側へ、上から2つ目分、
炉縁の亭主側から見た右側の延長線上で、
交差する部分に置く、
ということみたいです。

茶筌くせ直しってこんなの


茶筌くせ直しの使い方の動画です。
動画のものは陶器でできたものですね。

茶筅の穂先をさせるよう、山型の筒になっていて、
茶筅を乾かしながらくせを直せる、木や陶磁器でできた茶筅くせ直し。
茶筅の形を良くし、長持ちさせるためのものなんだそうです。

数百円~千円前後のものが主流のようです。

大きさは茶筅の穂先がのる程度で、
普通サイズで直径5cm~6.5cm、高さ5cm~7.5cmくらいみたいです。

穂が三重になっている「華茶筅」には、通常対応していないそうです。

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茶筅は、竹製のものがほとんどですが、
アウトドア用に金属製・プラスチック製なんかもあるようです。
また、流派や用途によって様々な種類があって、

少なくとも以下のような違いがあるそうです。
種類内容流派
茶筅の材質 煤竹表千家
紫竹(黒竹)武者小路千家
白竹(淡竹)裏千家他
穂先の形状 真直ぐ武者小路千家
外穂の先端を内に曲げる裏千家

他に、編み糸の色なども流派や趣向によって違いがあるようで、
通常は黒の糸を用いますが、白や赤の糸を用いることもあるようです。

茶筅は穂の数で名称が違って、平穂(16本)/荒穂(32本)/中荒穂(48本)/常穂・並穂(64本)/穂・繁穂(72本)/八十本立(80本)/百本立(96本)/百二十本立(120本)
といった感じになるみたいです。


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茶筅は、もともと中国で使われていた「筅(ささら)状のもの」が、
茶とともに日本にもたらされたのに始まるようです。

抹茶の普及につれて、茶筅を空也念仏宗の僧が売り歩くようになったそうで、
茶筅の製作を賤民の業とする時代もあったのだとか。

江戸時代に入って茶の湯が確立すると、
茶筅の製作を専業とする茶筅師が出現し、
奈良高山(現:生駒市高山町)が茶筅の産地として知られるようになったみたいです。


■茶筌(茶筅)の歴史
足利義政将軍時代、大和国添下郡鷹山村(現:奈良県生駒市高山町)の城主、
鷹山大膳介頼栄の次男に宗砌という人がいたそうです。

村田珠光との親交が厚かった宗砌は、
珠光に茶の粉末を湯に混和する道具の作成を依頼されたみたいです。
この時、仕上げたのが「茶筌」だったようです。

珠光は時の帝、後土御門天皇の行幸を仰ぎ、茶筌を天覧に供したそうです。
天皇はその精巧な実用工芸品に感動し、「高穂」と名付けたのだとか。

茶筌は城主一族の秘伝としたそうなのですが、
高山家八代の頼茂を最後に高山家が没した後、
16名の家来が秘伝を受け継ぎ、
城主の余技であった茶筌作りは、ひとつの職業としてスタートしたみたいです。

明治になるまで高山茶筌の秘伝は公開されず、
一子相伝とされたそうですが、
それ以後は公開され、ロンドンの日英大博覧会・
サンフランシスコ万国博・パリ大博覧会等に出品されたようです。
明治・大正・昭和・今上天皇の天覧にも供されたのだとか。

銅鑼ってこんなの


こちらの動画は、バイで銅鑼を鳴らした時の動画です。

銅鑼(どら)は、青銅・真鍮・鉄などでできた金属製円盤を、
枠(ドラスタンド)に吊るして、桴(ばち/バイ)で打ち鳴らすものだそうで、
仏教の法要、民俗芸能の囃子、歌舞伎下座音楽、出帆の合図など
広く用いられる打楽器みたいです。

砂張製が最もすばらしい音色を出すのだとか。

茶道では、小間の茶事に用いられ、中立の際、
亭主が「大小大小中中大」と七点打ち、
客に準備が整ったことを知らせるのに用いるようです。

最初の大から小に移る時は間をあけ、
中中は重ね打ちとし、
最後の大は少し間をおいて打ちとめるそうです。

四客以下のときは、喚鐘と同じように五つ打ちになるようで、
最後を打ち残し、亭主が迎えに出ることがあるのだとか。

縁に紐を付け、天井につるしたり、木製の枠につるしたりして、
中央部の半球状に膨らんでいる部分を、
塗りまたは彫のある柄の先に球状の皮が付いた銅鑼撥(ばち)で打つのだとか。

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銅鑼の「鑼」について説明しようと思います。

「鑼」は、中国・朝鮮の体鳴楽器だそうです。
厚手に作られたものを「鉦」といい、
盤が薄くて響きの長いものを「鑼」というようです。
中国では「金」または「金鑼」ともよぶとか。



■鉦について
「鉦」は、東アジアの体鳴楽器のことだそうです。
金属製の皿状の楽器で、皿の底部の外側、
または内側を一本または二本の槌で打奏するようです。

原則として皿の縁を打たない点で「鐘(しょう)」と、
皿の肉が薄く、鍛造を加えた「鑼(ら)」とは区別されるそうです。

楽器本体および槌の寸法や、細部の形状は、まちまちで、
演奏に際しても紐で吊るもの、手に持つもの、
床の上に直接伏せて置くものなどがあるとか。

日本では「鉦鼓」というようです。



■金鑼と明清楽について
「金鑼」は、中国や明清楽で用いる盆形の打楽器で、
直径約30センチの銅製の盤で、ひもで下げ、
ばちで中央をたたいて鳴らすそうです。

明清楽というのは、江戸時代に中国から日本へ伝来した音楽で、
「明楽」は、江戸時代中期に明朝末期に福建を中心とした地方から日本へもたらされた
唐宋の詩詞を歌詞とした音楽と、
「清楽」は、江戸時代後期に中国南方からもたらされた俗曲を中心とする音楽の、
両者を総じて呼ぶ際の用語だそうです。

明清楽資料庫には、明治期の明清楽の演奏の絵があるとか。



■鑼の種類
さて、「鑼」の話に戻すと、
その形態・大小・音色・音高・奏法の違いにより、
「大鑼」「小鑼」「掌鑼」に大別されるみたいです。

「大鑼」は、面積が大きく、打った後に音高が下がる効果が得られるのが特徴で、
民間器楽合奏・戯曲音楽・民俗舞踊の伴奏に用いられ、
以下の種類があるそうです。
(1)八音大鑼:十番鑼鼓に用いる大鑼。
(2)京鑼:京劇伴奏用の大鑼。
(3)乳鑼(包鑼):鑼面の中央にこぶ状の隆起がある大鑼。
(4)山鑼:形が非常に大きく、民間の焼香など宗教儀式の開始を合図する大鑼。

「小鑼」は、中国の小型のゴングのことで、中国語ではシヤオルオと言うようです。
縁を左手で持って、右手の木片で打奏するのだとか。
打奏後余韻の音高が上がるのが特徴で、京劇(ジンジュ)などに用いられるみたいです。

「掌鑼」は鑼の類の中で最小のもので、「春鑼」「湯鑼」の各種があるそうです。
朝鮮には李朝太祖のときに宮中宴礼および舞楽、軍楽に用いたといわれるとか。

また、鑼を組合せたものに「雲鑼(うんら)」というものがあるようです。
日本にも伝えられ、仏教儀式に用いられる鐃(にょう)のほか、
さまざまの合図に活用される銅鑼(どら)としても用いられたみたいです。



■雲鑼について
「雲鑼」は、東アジアの金属の打楽器で、十面鑼・九音鑼ともいうそうです。
中国元代では雲ごうと呼ばれ、13面の小鑼(円形の平たい盤)から成っていたのだとか。

現在では、大きさは同じだそうですが、厚みの異なる10面の小鑼を、
音高の順に木製の枠につり、木槌で打奏するそうです。
枠の下部に短い柄をつけたものと、台をつけたものと二種類があるとか。

独奏や合奏、戯曲音楽に用いられるようです。
朝鮮では李朝後期に吹打に用い、蒙古ではラマ教音楽、日本では明清楽に用いたみたいです。


■「鑼」の歴史
「鑼」は、南北朝時代から用いられていたことは明らかなのだそうですが、
宋代以後、劇音楽に取入れられて盛行し、
特に京劇における大小の鑼の果す役割は大きいのだとか。