2018年7月12日木曜日

NO 247 「茶人伝33」小堀遠州ってこんな人







大名、茶人、建築家、作庭家、書家



1579年~1647年3月12日



小堀政一は、幼名は作助、

「遠州」は武家官位の遠江守に由来する通称で後年の名乗りだそうです。

道号に大有宗甫、庵号に孤篷庵と号したとか。





■小堀遠州の生涯

はじめ、小姓(武士の職名)だった小堀政一は、豊臣秀吉への給仕を務め、

父の勧めもあって大徳寺の春屋宗園に参禅したようです。



1595年、豊臣秀吉の直参(主君に直接仕えること)となって伏見に移り、

ここで古田織部に茶道を学ぶことになるそうです。



小堀政一は「若い時に一度だけ 利休 に会った」らしいですが、

どうやらちらっと見かけた程度だったみたいです。

この頃になると、 利休 とあまり関係を持たない世代へと移行するようです。



1598年、秀吉が死去すると、父・正次と共に、

政一は徳川家康に仕えたそうです。



父・正次は関ヶ原の戦いでの功により備中松山城を賜り、

1604年、父の死後、政一はその遺領12,460石を継いだとか。



1608年、政一は、駿府城普請奉行となり、

修築の功により従五位下遠江守に叙任されるそうです。

以後、この官名により、小堀遠州と呼ばれるようになるみたいです。



なお、この修築は、伏見城・仙洞御所・駿府城などだそうです。



1619年10月に近江小室藩に移封、

1622年9月に近江国奉行に任ぜられるとか。



ここに陣屋を整備し茶室も設けたようですが、

政一は、ほとんど使わなかったみたいです。



1624年1月、さらに伏見奉行に任ぜられ豊後橋(現:観月橋)北詰に、

新たに奉行屋敷を設け、

その後、ほとんどをここで暮らしたとか。



晩年になり、公金1万両を流用したとする嫌疑がかかったそうです。

しかし、酒井忠勝・井伊直孝・細川三斎らの口添えにより不問とされたみたいです。



政一は、伏見奉行を務めながら茶の湯三昧に過ごし、

1647年3月12日、伏見奉行屋敷にて69歳で死去したようです。





■天下一の宗匠へ

小堀遠州は、早くから古田織部に茶を学び、

秘蔵の弟子といわれたようです。



織部没後、江戸品川御殿で徳川家光に献茶、

ここに、将軍家茶道師範となり、

天下一宗匠と称せられることとなるみたいです。



生涯に400回あまりの茶会を開き、

招かれた人々は大名・公家・旗本・町人などあらゆる階層に、

延べ人数は、2000人に及ぶとのこと。



1646年の茶会で使われた道具は、

中国の美術・工芸に加えて、日本公家歌人の書や画家の作品、

茶入は当時焼かれたばかりの品、といった感じで、

「中国・日本の伝統的な美術が適度に配置されたもの」

だったみたいです。



■勤謹和緩 (朱熹【しゅき】著『小学』)

参知政事(さんちせいじ)の張観

某自守官以来、常持四字。

某、守官より以来、常に四字を持せり。



勤謹和既聞命矣。緩之一字、某所未聞。



勤・謹・和はすでに命を聞けり。

緩の一字は某のいまだ聞かざるところなり。



最後の「緩」は、急いては事を仕損じる事を戒めている。